全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

侮辱された怒りと、その方向について

まさかできるはずがないと思っていた東京オリンピックが、今日(2021年6月24日)になっても開催の前提で物事が動いている。
実際に動いているのか疑わしいが、どうやら開催に向けて動いているように私たちには伝えられている。これは侮辱である。

私たちは健康で文化的な生活を送る権利を憲法で保障された国に暮らしており、それを侵そうとする行政的な決定は全て違憲であって無効である。しかし権力者は適法性や合理性を無視し、保身と関係者の利益のために国民の命と健康を引き換えにしている。権力者達は、私たちの人権を一顧だにしないという宣言としてオリンピックの開催に向けて動いている。これは侮辱である。

侮辱されればそれに対して怒りをもって反抗をしなければならない。ただし、周囲の人々にその怒りを振りまいてはならない。私が感じている怒りを、隣人も感じているわけではない。しかし、私は隣人の幸福を願うからこそ怒りをもって権力と対峙しなければと思う。

権力から侮辱される事の怒りは腹の奥に持ち続けながらも、家族や同僚、隣人に対してはそれぞれに対して敬意を持って、彼ら個別の価値観を認めながら、和やかな関係を壊さぬように振る舞わなければならない。
私たちが私たちという複数形であるためには、感情の一致を目指すのではなく、理想の共有を目指さなければならない。感性と価値観の独立した個人が集まり、同じ理想を共有した時に私たちは社会を理想へ向けて少しだけ動かすことができる。

横暴な権力から侮辱されれば怒らなければならない。しかし、怒りは真っ直ぐに元の方向にだけ向けて、私たちは私たちとして手を繋がなければいけない。