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プーチンの戦争について(2022/3/10)

ロシアがウクライナに軍事侵攻して2週間が経った。

数日前の段階で200万人のウクライナ人が国外へ避難し、2万人の義勇兵ウクライナに入った。

廃炉作業中のチェルノブイリ原発が攻撃され、電源を喪失している。ザポリージャ原発もロシア軍に掌握されている。

週刊誌の記事ではプーチンが暗殺された場合など「死の手」と呼ばれるシステムにより、世界中に核ミサイルが発射されるだろうとも言われている。

核の無差別発射は眉唾にしても、キューバ危機を超える世界的な緊急事態になっているとも言われる。

その状況に私個人は全く無力である。多くの日本に暮らす市民も同様であるだろう。だからかテレビでは戦争の話題を扱いはするものの、いまだに他のスポーツやゴシップと並列的に見える。

私はどのように振る舞うべきなのだろうか。ウクライナの人々の惨状をスマートフォンの画面越しに見て、プーチンに騙されたと語るロシア兵捕虜の姿を見て、ミサイルで容赦なく破壊されるキーフやその他のウクライナの都市を見て、私はどのように振る舞えばいいのだろう。

ひとまず呆然として、何もできないながらも今の世界を知り考える事をしなければならないと思う。

日本政府は自衛隊の装備品のうち、対戦車砲こそ断ったそうだが、ヘルメットや防弾チョッキをウクライナの求めに応じて供出し自衛隊機で届けに向かった。私はこれは間違いであると考える。

人の命を救う道具だとしても、兵士やゲリラの身を守る事に使われ、彼らが逆にロシア兵を殺す事になるかもしれない。ゲリラが迷彩柄の防衛装備を見に付けていれば、それだけで標的となりやすく、逆にウクライナ人の死を招くかもしれない。日本政府と日本国民はその責任を負わなければならない。傍観にも責任はあるが、防御装備の提供には相対的により重い責任が生じるだろう。ロシアの軍事侵攻は国際法違反の愚挙であるが、銃弾とミサイルの飛び交う戦地に、片側に向けて防衛装備を提供するのは軍事支援であり紛争介入や参戦とみなされても不思議はない。日本国憲法の掲げる戦争放棄と平和主義とは相容れない行いである。

戦争という最悪の人権侵害が今この瞬間にも進行しているが、私にできる事は自国の政府の拙速な行動を批判する事に留まる。独裁と専制が戦争に繋がる事をロシアとプーチンから学び、自国が民主制によって政治が行われる状態を実現しなければならない。今よりも状況が悪くなろうとする憲法の改正や非民主的な勢力の台頭に否と声を上げ続けなければならない。民主制が正しく機能するように、隣人をより政治的に成熟するように、地域でも主権者、有権者としての活動と表現を続けなければならない。間違った事に間違いだと表現し続けなければならない。

そしてゼレンスキー大統領のヒロイックな徹底抗戦の構えは、勇ましく美しくすらあるものの、それがより多くの人の命を奪っているのではないかと胸が痛い。たとえ世界の民主主義、自由主義を背負って戦ってくれているのだとしても、一人でも多くのウクライナの人々の命が助かって欲しいと願う。そしてこの戦争が終わった後に、一つの国家主義的なネイションステートが確立する事にも言いようのないわだかまりを感じる。