全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

やまゆり園事件と24時間テレビに対する犯行予告について

要望があったので取り急ぎ今書ける事を書いた。
やまゆり園事件をまとめた本はこれから読むので大幅に加筆修正するかもしれない。

やまゆり園事件の犯人は幼少期より障害者に対する差別意識があったにも関わらず、何かの間違いのように重度精神障害者施設に勤めてしまった。約3年間という、年齢や経験からすれば短くない期間を通じて、持っていた差別意識をより強めるようになってしまった。彼の異常な思想や行動力の裏に大麻の影響が考えられるが、それは根深い差別意識の自己肯定と、世間の常識から遮断するという効果をもたらしただろうか。彼の言動は狂気とも言えるが、ある種の幼稚さ、子供のような直情も見ることができる。衆議院議長大島理森に犯行声明を無理矢理届けたのがきっかけで措置入院や退職という結果になるのだが、重度の障害者を殺す事が日本と世界の平和のためだという強い信念を持っており、またそれを政府が特殊工作員のように密かに承認し、実行後は新しい顔と名前と相当の現金を与えて無罪放免にしてくれるだろうとも信じていたように見える。価値の多様性であるとか、人権の普遍性という近代社会の常識に到達しておらず、何かの役に立つかどうかで社会参加の資格を測り、無資格者を養う費用が無駄なので殺すという短絡さだ。もちろん犯人も、施設での勤労を通じて日々徒労感と絶望感を深めていったのかもしれない。そうだとしても、やはり彼の達した結論は誰にも肯定されるべきものではない。

極度の差別主義者が大麻の影響によって最悪の犯行に及んだこの事件は、犯人の抱いていた優生思想、障害者は殺した方が社会のためだという陳腐な思想をあらゆる立場の人が明確に否定するべきであった。しかしながら、安倍総理大臣も菅官房長官も、被害者へのお悔やみや再発防止、真相究明といったおざなりなコメントしか出さず、犯人の差別意識を否定しなかった。特に政府や自民党は犯行予告で特赦と新しい人生を要求されていたのだから、真っ向から障害者であれ健常者であれ殺してはならない、役立つかどうかで社会を閉じてはならない、他者の幸福を勝手に推し量ってはならないと、明確に強いメッセージを送る義務があったと考えている。それをせずにおいたため、この事件後も日本社会は、とくに政治的文脈においては多少の差別は議論の余地があると甘くとらえられているように思う。

相模原事件の犯人が愛国者を自認していたのは間違いないところだろうと思う。そして、昨今のネトウヨと呼ばれる自称愛国者によるアジア諸国に対する差別意識の発露とも接続するものがあると感じる。この国を、この社会を良くするために邪魔なものを排除しようとする子供のような安直さを、今の政権や与党は利用して掃き溜めのような支持層をSNS上に作り上げている。今回の24時間テレビに対する犯行予告にしても、そのような愛国的差別意識が雰囲気としてあるからこそ、発せられた醜悪な言葉だ。

私達は何度でも差別と優生思想を否定しなければならない。そして政府と全ての政治家にも、事あるごとに自らの言葉で否定のメッセージを発してもらわなければならない。それはすぐに同種の事件を撲滅したり抑止したりするものではないが、差別のない社会に近づくために絶対に必要なものである。