全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

早逝した彼女の件で何か書かなければいけない

若い女子プロレスラーが亡くなったそうだ。訃報に触れるまで私は彼女を知らなかったが、報道されている内容を見ると全く不幸であり、テレビという娯楽装置の犠牲者というふうに思える。彼女の母親も同業だったそうで、自分が育て、また背中を見て育ってくれた娘がその仕事の関わりの中で早逝する哀しみを思うと胸が潰れそうになる。

私は差別を憎んでいるが、亡くなった彼女のように、誰かの商売のために道具にされ、その尊厳が踏みにじられ、利用されるような非人道的なやり方を同じように憎む。彼女が受けたのは一般的な差別ではないが、人間の尊厳を破壊するという部分では共通するものがあり、その被害に遭った当人は同じような苦しみを受けただろう事は想像に難くない。

人間は誰もが他者から尊重されなければならない。

人間は誰もが他者を尊重しなければならない。

当たり前の事なのに、身近な社会にも人間らしく尊重されず、道具のように利用されて捨てられる人が数多くいる。社会を変えなければいけないし、人権意識の無い、他者を尊重できない野蛮な人間を変えなければならない。そしてそういう人に人権意識を植え付けて他者を尊重するように変えるのは至難の業であり、無理にしようとすればむしろ彼の人権を侵害してしまうおそれもあるのだ。

人間は自由である。社会的には認められないが、差別もいじめも暴力も、それを自由意志によって行為するのは可能である。制限されるのは行為の自由ではなく、他者を傷つける発想や意図であり、制限するのは自分自身でなければならない。現代における人間的な人間とは、他者を傷つける行為を自制できるのが条件だろう。

人間性は歴史を学び、現代の規範が成立した由来を理解しなければ頼りないものになるだろう。過去にあった奴隷制ホロコースト、植民地政策や女性差別を知らなければ、差別というのがどれほど深く人間を損ない、不幸な結果を生むのかが理解できないだろう。だから誰もが人類の不幸な歴史を学ぶ責任があり、常に学び続けなければいけない。今回の不幸な事件から私達が学ばなければならないのは、娯楽のために誰かの苦悩を見世物にしてはいけないし、職業的に人前に出ているからといって侮辱してもいい理由にはならないという事だ。私達は苦悩している人を見かけたらそっと寄り添って何か力になれないか共に悩むべきなのだ。何もできないなら、少し離れた場所から祈るべきなのだ。それが人間性であり、人間が不幸な歴史の上に獲得した現代の徳性なのだ。