全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

何が変わるのだろうか(変わらない事などあるのだろうか)。

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)によって私達の生活は大きな変化を余儀なくされている。
これは一時的なものではなく、自分の生涯にわたって、さらに何世代にもわたる影響として、相当に文化を変容させるのではと想像している。
 
楽観的な予測通り、人類がこのウイルスに対する集団免疫を獲得するか、有効なワクチンが開発されれば杞憂に終わる。しかし、そうでなかった場合は文化の中でも特に慣習、そして芸術表現と鑑賞に関する部分が大きく関わってくるだろう。
まず想像に難くないのは合唱や吹奏楽器の合奏はほぼ行われなくなるだろう。それらを鑑賞するのも、ホールの中ではおそらく行われなくなるのではないだろうか。その影響からオーディオ文化はある程度復権するかもしれない。
 
日本の演劇文化において現代的な様式である小劇場は、崖っぷちにあると言ってもいいのではないか。浄瑠璃文楽は残るだろう。しかし俳優が観客の前で発声する形態の芝居というのは一般的でなくなるのではないか。今後は録音された音声に合わせて動く演劇、または離れた部屋からマイクで声をあてる形態に変わっていくのかもしれない。舞台俳優は声優と体優の分業となるかもしれない。オペラハウスや多目的ホールでの公演は激減し、野外劇場が数少ない上演の場所に選ばれるかもしれない。
 
人間という種族は、これまでと比べて明らかに無口で静かな生き物へ変わらざるをえないのではないか。人前で発声する事が全体的に憚られるような行動様式に、数十年かけて変わってゆくかもしれない。たとえ家族であっても食卓を囲むという行為は感染症リスクから避けるべきであるし、別々に食べるのか横並び、背中合わせで無言で食事をするのがマナーとなってしまうかもしれない。レストランや食堂もそのほとんどは全く違う形式に変わってしまうのではないか。個室か衝立で仕切られたスペースで、静かに食事をして終わったら速やかにその場を離れるのが常識になるかもしれない。ラーメンチェーンの一蘭、あるいは一部の孤独な学生らによる便所飯といわれる行為が将来スタンダードになる食事風景に近いかもしれない。
 
挨拶もマスクで口元を覆ったまま、頭を下げたり自分の両手を合わせる、手のひらを見せるといった動作のみに変化するかもしれない。欧米的なハグやキスの習慣はおそらく今後は目にしなくなるだろう。人間同士が触れ合うのは、ほとんど性行為のように家の中で密やかに行われるものになるのではないか。
 
これまで人間は集団の事業によって自然環境や外敵から身を守ってきた。しかし、今後は集団そのものが健康や生命を脅かす媒介と考えるのが妥当であり、集合する事が不道徳と目されるかもしれない。
 
極端にSF的想像をすれば、人類は戸外においてヘルメットを被って生活するかもしれない。そしてマイクとスピーカーを用いた会話を、近距離の無線通信で行っているかもしれない。
 
おそらくこのウイルスは、その致死率からして人類の数を激減させるほどのインパクトではない。しかし医学疫学、そして情報通信技術が今の水準にあるからこそ、文化全般を急激に変化させる蓋然性がある。過去の日常が戻らない事を覚悟した方がいいかもしれない。そして、変化に対応する柔軟体操をはじめるべきかもしれない。歴史的な転換点に私達はいるのだろう。

新型コロナ下、あるいはinter-coronaの生活について

COVID-19の拡大によって大げさな表現を用いれば世界秩序が変わりつつある。私達の健康で文化的な生活は、新型コロナウイルスからどのように生活圏を防衛し、あるいはウイルスへの免疫を獲得するかにかかっている。
コミュニティとはその再生産を根源的な目標とする集合だろう。つまり、日々の生活を共にし、共助と交歓を行うのがその主な機能と目的であると言える。しかし、その主な目的であるところの密接な交流や交歓が感染症を広め、またその収拾を阻害すると疫学的に認められるところとなってしまった。つまり、親しい人と一所で同じ時間を過ごし、歓談し、喫茶し、食事をし、飲酒をするといった基本的な社交の振る舞いが忌避すべき危険な行為と見なされるようになってしまった。私の日常の行動様式にはないが、親しい誰かの手を握り、抱き合い頬にキスをするような、そうした親密さを確かめ合う接触も、この感染症が過去のものになるまでは、習慣として戻ってはこないのではないか。
私達の肉体は脆弱である。身の回りの自動車であるとか、ちょっとした機械や、また電気や火炎によって、わずかな水によってすら容易に生命を失う事がある。ウイルスによる感染症もそれと同様に、それと関わればわずか数日で自分や家族の命をあっさり奪ってゆくかもしれない天敵である。人間は言語と文字によって、印刷技術によってその知恵と知見を積み重ね、またインターネットとコンピューターによって同時代の人々が広く医学や科学の恩恵に浴するようになった。しかし、今の時代だからこそ、高速な移動手段と物流によって、またこれまで望ましいとされていた社交によって、COVID-19は私達の生命と社会を脅かしている。
このウイルスに感染しないように、家に引きこもり、また必要最低限の交流によって感染症以外の原因によって命を失うまで生きる事が、今とこれからを生きる人類にとって道徳的な生き方だろうか。それが正しいとは思わないが、しかし間違っていると言えるだけの確固たる価値観のようなものを今の時点で持ち合わせてはいない。生きる事は根本的な目的であり、つまり死なないような行動が合目的である。私達がこれまで行ってきたような社交的生活は命がけで続けるべきかと言われれば、それには否と答えるしかない。ではどのような生活を営むべきか、もっと真剣に考える時期がそろそろ近づいているように思う。

安倍政権と2018年7月時点の所感

2012年の年末に成立した安倍内開は改造や選挙を経て2018年7月の現時点まで継続している。この間世に明らかになった不正義と不誠実、不公正と虚偽の数々は文字通り枚挙に暇がなく、それをすると病みそうなので私より強靭な精神を有する諸氏に託す。
私は他者を罵るような表現は原則的に不道徳と考えているが、それが国家という巨大かつ所属変更が困難な共同体の権力者であれば例外である。つまり、私はこれから安倍晋三を罵るような文言を連ねる覚悟である。
安倍晋三は嘘つきである。これはもう誰の目にも明らかであろう。彼は自分の立場であるとか自尊心というものが脅かされた時には反射的にそれを否定する嘘をつく。おそらく意図も思慮もなく、それは精神の反射なのだ。だから安倍晋三に嘘をつきましたねと咎めても無駄だとすら思っている。おそらく本人も反射的に嘘をつく事を反省することはないのではないか。何しろそこには判断を差し挟む隙がなく、責任が問えないかもしれないほど自然に行われる自衛行為なのだ。そういう姑息な人間がある程度存在するのは仕方がないが、日本国民にとってそういう安倍晋三が最高権力者として5年以上の長期にわたって居座っている事が非常な悲劇である。
まともな野党が安倍晋三と内閣の面々の資質の欠如を指摘する一方で、ほとんど誰もその職を辞してはいない。また米国と経団連から言われるままに現在と未来の国民を一層苦境に立たせるような法律や予算を次々と成立させている。野党や心ある知識人は全力で安倍内閣を批判し退陣を求めているが、いまだにそれは叶っていない。これをもって野党が無能であるとか、安倍内閣の存続自体が民意に拠っていると喧伝する層がいるが、彼らが平均的な安倍政権支持者の姿だと私は考えている。

与党支持者にしてもより狭い集合である安倍政権支持者にしても、安倍晋三と内閣の面々が無謬であるとは考えていないだろう。もちろん権力者が無謬でなければならないわけではないが、権力者にはその力に応じた倫理観や資質が当然求められるものである。しかしながら、前述のように安倍晋三には反射的に嘘で身を守る癖があり、また知性の乏しさからか公正であるよりも身内を優遇するのが道徳的に正しく美しいと信じている節もある。法治主義立憲主義に拠って立つ近代国民国家において、まさに安倍晋三ほど不適正な人物もいないと思われるのだが、全く不幸な事にすでに彼が総理大臣の座に5年を超えて座り続けている。

この不幸の原因はいろいろあるものの、結局は主権者たる日本国民全体の、民主主義、法治主義立憲主義への無理解が土台となってしまっている。ここで少し飛躍するが、これらの政治的な主義、ismというのは優れて概念的なものである。そもそも主義などというのは具象ではありえず、どこまでも抽象的であるが故に、知的な想像力を有する人間でなければ理解できず議論も成り立たない。乱暴に言ってしまえば、民主主義という抽象概念を用いて投票やデモなど現実に行動するためには知性が必要なのだ。そして、非常に残念な事に日本の最高権力者である安倍晋三当人に一般の主権者として求められるレベルの知性さえ不足しており、必然的に周囲には知性の欠如した人々が集まり、もしかすると日本の現内閣の中には民主主義、法治主義立憲主義を大学法学部のレベルで理解できている人が誰もいない可能性すらある。もちろん閣僚の多くは安倍晋三よりもよほどまともな知性をもっているはずだが、彼らは権力の座にいるためか、その知性を放棄して、無知な安倍晋三のご機嫌を伺う事を主な仕事にしているようだ。

結局投票率の低さも安倍内閣の支持率の高さ(低くなさ)も、大衆の政治理解の低さと知性の欠乏に因ると私は考えている。本来は教育によって全ての人間が知性を得て、個性を活かしながら個性的な幸福を享受する生活を送れるようにする責任が近代国家にはある。しかし国民国家という制度を深く理解しないまま取り入れた日本においては、戦前は兵隊を作るために、戦後は兵隊のような労働者を作るために教育が利用され、自分で考えず、上役の指示命令に黙って従う人々を工場のように生産し出荷し続けてきた。少し語弊があれば、そうしようと少なくない資本家と政治家が意図して仕組みを作ってきた。目的が無批判で兵隊のような労働者の生産であれば、労働法をはじめとした権利について教えるべきではないし、抽象的な思想を身に付けさせる必要もない。文字通り読み書きそろばん、ワードとエクセルが使えて車の運転でもできれば後は職場における特殊な慣習に染め上げて安価な労働力として利用すればいいのだ。

日本国民は特に義務教育とされる小学校と中学校に何かを期待してはいけないし、省庁の管轄下にある高校も大学も結局は組織の建て付けとして無思考無批判な人間を生産するようになっている。教育を受けさせる立場であればインターナショナルな組織に託す方がいいし、自らを教育するならば文部科学省などの影響を受けていないような機関を利用する方がいい。いわゆる学校組織に入らずとも、岩波文庫であるとか信頼のおける出版物の中から人の勧めに従ってテキストを選んでもいいだろう。日本においては普遍的な教育を受けるためには誰かに私淑する必要があると私は思う。様々な言動を見て、信頼に足ると感じた人をなぞるのが自らを教育する時の指針になるだろう。

知的になる事は幸福になる事とは別の事である。しかし、幸福とは何かを理解するためには知性が必要なのだから、つまり本当の意味で幸福な人は知的な人の中にしかいない。

「ななまがり」というお笑い芸人のネタは差別を助長するのではと懸念する。

私は普段はテレビを見ないが、先日親類の家でたまたま見た番組に非常に驚いた。
テレビ朝日系列の「日曜もアメトーク」という雨上がり決死隊が司会をしてお笑い芸人が多数出演するバラエティー番組だ。
その番組に若手芸人にパフォーマンスをさせて、それをベテランが真似るというコーナーがある。そこに若手芸人として出演した「ななまがり」という二人組のパフォーマンスが非常に不愉快だった。
内容は「キモおにいさん」というキャラクターがキモイ、つまり気持ち悪いとか気色悪いとか、生理的に受け付けないというネガティブな感覚を笑うという趣旨だ。気持ち悪いという感覚を抱くのは反射的なものであって誰も非難できないが、それを自覚的に表現するのには慎重であるべきだし、当人に直接的に伝えるのはできる限り避けるべきであると考える。多くの場合、気持ち悪いと伝えられた当人は深く傷つくからだ。そして気持ち悪いと感じさせた対象を笑うという行為は、失礼を通り過ぎて侮辱であり、暴力ですらある。それをテレビを通して何百万、何千万という人に対して見せる感覚に全く共感できず嫌悪感を覚える。
特に深刻なのが、彼らが嘲笑の対象にしている「キモお兄さん」というキャラクターが、男性に恋愛対象を抱く男性、しかも小学生高学年あたりの少年を想定してあるところだ。思春期に自らの性的志向を自覚し思い悩んだホモセクシャルの人々も多くいると思われるし、現在進行形でそのような境遇にある少年や少女も一人や二人ではないはずである。しかしその番組では、まるで彼らを「キモイ」と笑うのが当たり前であるような風潮を積極的に作っているようで制作に関わった人々の良識を疑うし、軽蔑さえする。
どうしてこのような番組が問題にならないのか不思議である。LGBTの人権を擁護する活動をされている人々がどのような感想をお持ちなのかぜひ伺いたいと思う。

民進党の蓮舫代表が戸籍を公開すべきでない理由

蓮舫氏が自らの戸籍を公開する意思があるという報道を見て腹が立っている。
私にできる範囲で、名刺を頂いた民進党の方に電話で伝えたし、明日も民進系の地方議員へ電話するつもりである。とにかく蓮舫代表は戸籍など一部であっても公表すべきではない。特に公党の党首である立場を鑑みれば、絶対にしてはいけない。

蓮舫氏が二重国籍であるとか、国会議員にふさわしくないと糾弾しているのはほぼレイシスト、差別主義者であると考えて差し支えないだろう。そもそも選挙管理委員会に立候補を届け出て受理され、選挙され三度も議員になっているという事は、彼女は紛れもなく日本国籍を有している何よりの証拠であるし、公職選挙法には日本国籍の他に外国籍を有していたとしても、それを理由に公職となれないという文言はない。つまりもし蓮舫氏がいまだに二重国籍の状態であっても、法的には何の問題も無い。
法的な根拠なく、つまり言いがかりのように戸籍の公開が求められる社会が今の日本でありこれからの日本であるとしたら、大変おぞましいと言わざるを得ない。想像してみよう。韓国籍/朝鮮籍の家庭に生まれて日本国籍を持っている人物がいたとして、就職や結婚に際して戸籍を公開せよと求められたらどうだろうか。戸籍の公開を求める人々には何ら法的な裏付けや正当性がないにも関わらず、日本国籍であるかどうか、また他国との二重国籍でないかどうかを証明せよと要求されたらどのように感じるだろうか。まずもって不愉快だろうし、仮に日本国籍でなかったら、二重国籍だったら要求した彼らはいかに振る舞うのだろうか。結婚や雇用を取りやめるのだろうか。それは明らかな差別なのだが、戸籍の公開を要求するという事は、つまり「もしも日本人でなければ差別をするが、日本人なら差別しないので見せなさい」という、やはり露骨な差別意識が溢れ出ている。そしてもしも蓮舫氏が自らの戸籍を公にするような事があれば、それを先例として外国籍を有していそうな人々に対し、差別者達は嬉々として戸籍の公開を求め、拒否すれば非国民とみなされ差別されるだろう。現代に非国民を生まないためにも、蓮舫氏は決して戸籍を公開してはならない。
戸籍の公開を求めているのが差別者達であれば、彼らの要求に応えるのは差別者に成功体験を与える事になってしまう。差別は人を絶望させ命を奪う事も珍しくない。差別者達を増長させないためにも、彼らの要求には何一つ応じないのが最良であり唯一の選択である。
かつて民主党から出た最初の総理大臣である鳩山由紀夫氏は、外国人参政権についての討論の中で「日本列島は日本人だけの所有物じゃないんですから」と発言して物議を醸した。私も最初に聞いた時には違和感があったが、よくよく考えてみれはその通りである。国土や領土と呼ばれるものは、形式的には日本という国家が領有していると考えられている。しかし、日本という国家を構成しているのは決して日本人、日本国籍保有者だけではない。永住外国人も多く暮らしているし、一時的に滞在したり留学している外国人も多くいる。国家とは株式会社のように権利を分割所有するシステムではなく、もっと高度に概念的な枠組みである。日本国籍保有者だけに日本という国家からの利益を分配したり、日本が解散する時に残余財産の分配を受けたりという約束にはなっていない。今でも日本は海外での開発援助や技術協力など様々な形で日本国籍を有してない人々のためにその経済力や技術力を使っている。日本という国家が、日本人だけに利益を与えるという考えは国家主義と父権主義が幼児性を持って結びつけられた醜い願望であって、日本国籍は日本を形作る主な人々ではあっても、全てではないしそのような事はあり得ない。

二重国籍だからとスパイ容疑をかける人々は、民間外交で友好的に接してくれる外国人の人々をはなからスパイだと思って見ているのだろうか。どうして他国を、それも隣国を敵国と思わなければいけないのだろうか。私はその敵を作る発想が誰の利益になるのかを考えたい。結局は兵器を扱う死の商人と、権力を握り続けたい権力者だろう。彼らの利益のために差別意識を受け付けられた人々には少し同情してしまうが、何としても自らの判断でその差別意識を捨て、正い判断をしてくれるように望む。

森友学園、安倍政権、日本会議。

森友学園問題について、発覚してから今日(3/18)までずっと追いかけている。余りにも多くの不公正や偏見や虚偽や言い逃れ、人間や集団のネガティブな面が露出し過ぎて日常生活にも支障が出てしまいそうだ。

上記リンクの動画がいつまで再生可能か分らないが、現内閣の閣僚のうち8割が日本会議に所属しており改憲を通じた戦前回帰を目論む人々だと説明されている。特に安倍総理の覚えめでたき稲田朋美防衛相は日本会議の母体であった生長の家の信者であり、しかもそれは祖母の代からの筋金入りであるとされる。

第二次安倍政権がこれほどまでに独裁的に振る舞えるのは突き詰めれば内閣人事局によって官僚のトップから600人の人事権を掌握しているためである。
国有地売却に関して直接の圧力をかけていなかったとしても、安倍晋三記念小学校という名が聞こえればそれは「官邸マター」であり「安倍マター」であり、少しでも出世したい官僚にとって絶対に自らの立場においてその設立の妨害をしてはならないと戦慄させるに十分な体制ができてしまっている。

同時に日本維新の会に所属する議員らも、自分たちの政治生命は安倍首相次第だと自覚しており、官僚の働きと合わせて忖度を超えた隷従とさえ言えるほどの卑屈な働きぶりである。

私は安倍晋三には思想も信心も感じられないが、唯一祖父の成し遂げられなかった憲法改正のみが悲願なのだろうと推測する。おそらくその他の事は二の次であり、日本会議も含めあらゆるものを利用し、憚ることなく突き進んでいる。しかし思想なき運動にはおこぼれに与ろうと有象無象が集まるものであり、籠池氏らもその一種なのだろう。

この件で安倍政権が倒れればまずは目出度い事ではあるが、今後日本会議が誰を神輿に担ぎ、多くの成功と失敗から学んで巧妙に活動を変質させていくのかを警戒しなければいけない。
民主党政権が成立した頃、政治は良く言えば民意で、悪く言えば雰囲気で物事が決まっていた。しかし日本会議の勃興以降はその地道な運動によって政治的な選択や決定がされる時代になったのだろう。リベラルや左派の運動がより洗練され緻密になるように期待される。

 

ヤクザの人権について

映画『ヤクザと憲法』の公開や週刊誌の記事によって「ヤクザの人権」について言及が増えている。

例によってまとめサイトなどでは、「人権がないのは当たり前」だの「それを承知でヤクザになったのだろう」という蔑視的なコメントが羅列されるが、実に幼稚で見苦しいものだ。

そもそも一般に言う人権とは基本的人権の事であり、人間であれば誰もが根源的に有していて、決して奪われたり制限されたりしない権利の事である。たとえ彼が指定暴力団の成員であって、いわゆるヤクザと呼ばれていても、決して制限されてはならないのが人権なのだ。

現在は全ての都道府県に暴力団排除条例が制定され、対象者への利益供与が禁止されている。さすがに電気水道ガスと病院だけは例外らしいが、暴力団員であることを隠さなければ銀行口座を作る事も住居を借りる事もできない。また後になって暴力団員であることが判明すればその契約を解除できるとされており、常に不安な立場で生活しなければいけない。

暴力団員である事は、法の下の平等から外れているという事であり、明らかな被差別者となっている。特に排除条例は近年になって制定されたものであり、既に暴力団員だった者にとっては不遡及の原則から考えればいささか問題があるのではないだろうか。嫌なら辞めればいいと言う人も多いが、刺青や指の欠損などがあれば一般市民として仕事を得る事がかなり困難だろう。

それを自業自得と言って嘲笑する者は、いつか自分もそうやって差別される身に置かれるとは想像しないのだろう。例えば政府の国家主義がどんどん先鋭化すれば、障害者や老人の人権が制限される日もありえないとは思えない。あるいは国際結婚した人が、国粋主義的な政府によって差別を受ける日も来るかもしれない。

そういう暗い時代が来ないように、憲法と人権を守らなければいけないのだ。たとえヤクザであっても、人権が蔑ろにされているのを見過ごしてはいけない。