全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

新型コロナ下、あるいはinter-coronaの生活について

COVID-19の拡大によって大げさな表現を用いれば世界秩序が変わりつつある。私達の健康で文化的な生活は、新型コロナウイルスからどのように生活圏を防衛し、あるいはウイルスへの免疫を獲得するかにかかっている。
コミュニティとはその再生産を根源的な目標とする集合だろう。つまり、日々の生活を共にし、共助と交歓を行うのがその主な機能と目的であると言える。しかし、その主な目的であるところの密接な交流や交歓が感染症を広め、またその収拾を阻害すると疫学的に認められるところとなってしまった。つまり、親しい人と一所で同じ時間を過ごし、歓談し、喫茶し、食事をし、飲酒をするといった基本的な社交の振る舞いが忌避すべき危険な行為と見なされるようになってしまった。私の日常の行動様式にはないが、親しい誰かの手を握り、抱き合い頬にキスをするような、そうした親密さを確かめ合う接触も、この感染症が過去のものになるまでは、習慣として戻ってはこないのではないか。
私達の肉体は脆弱である。身の回りの自動車であるとか、ちょっとした機械や、また電気や火炎によって、わずかな水によってすら容易に生命を失う事がある。ウイルスによる感染症もそれと同様に、それと関わればわずか数日で自分や家族の命をあっさり奪ってゆくかもしれない天敵である。人間は言語と文字によって、印刷技術によってその知恵と知見を積み重ね、またインターネットとコンピューターによって同時代の人々が広く医学や科学の恩恵に浴するようになった。しかし、今の時代だからこそ、高速な移動手段と物流によって、またこれまで望ましいとされていた社交によって、COVID-19は私達の生命と社会を脅かしている。
このウイルスに感染しないように、家に引きこもり、また必要最低限の交流によって感染症以外の原因によって命を失うまで生きる事が、今とこれからを生きる人類にとって道徳的な生き方だろうか。それが正しいとは思わないが、しかし間違っていると言えるだけの確固たる価値観のようなものを今の時点で持ち合わせてはいない。生きる事は根本的な目的であり、つまり死なないような行動が合目的である。私達がこれまで行ってきたような社交的生活は命がけで続けるべきかと言われれば、それには否と答えるしかない。ではどのような生活を営むべきか、もっと真剣に考える時期がそろそろ近づいているように思う。