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師を選ぶ事について

師弟関係の根本は私淑であると思う。

私達は生まれてから死ぬまでに幾人かの師に従って知識を得たり見識を深めたりする。しかし親であったり幼少期に関わる先生と呼ばれる人々は、所与のものであり、私達が自分の意思や希望で選んだものではない。

そもそも親や養育者というのは人文学的な意味の師匠と言えるだろうか。動物として生きるうえで必要な多くの事を教えてはくれるものの、歴史や学問について教授してくれない、またはする能力のない養育者も少なからずあるだろう。そして本邦のいわゆる義務教育と呼ばれる小学校と中学校、そしてそれに準ずる形でほとんどの少年がそのまま学ぶ高等学校でも、古くは指揮官の命令に忠実な兵隊を、少し以前までは会社の命令に忠実な企業戦士を育成する設計がされており、いまだにその形式は多くがそのまま残っている。

ある程度の例外はあるだろうが、今の日本では自らが師を選び主体的に学ぶ機会はほとんど18歳を過ぎて大学へ進学するまでは訪れない。

 

学びというのは本質的に好奇心の延長線上にあるものだ。就職に有利だとか受験のためというのは一種の訓練や手段であり、多くの公的な学校の内部では学びの根幹が欠落しているように思う。

ある現象や表象に接し、その原理や機序を知りたいという切望こそが好奇心であり学びの動力となる。そして、その先に教えを請うべき人を自ら探し、その人から学ぶのが私淑であり師弟関係であり、また本当に先生と呼ぶべき間柄であろう。偶然や誰かの意図によって作られた師弟関係は紛い物であると私は思う。もちろん嘘から出た真と言うべきような、与えられた関係の中で幸運にも素晴らしい先生に恵まれる場合もあるとは思うが。

自分で師を選んだ時に、自分の選択が正しいものであって欲しいと誰もが無意識に願うだろう。つまり、何か教えを受けたいと選んだ人であれば、その分野の専門家や権威であるのは当然として、社会人市民としても成熟し高潔な人物であるのが先生として望ましい姿だと言える。しかし、そのような理想的な人物はなかなか市井にいるものではない。人間は誰もが自己中心的であり、弱さもあり、一時は高潔で屈強な人物でも、年齢や病苦によって弱ったり惑うのが普通である。

つまり師を無条件全面的に理想化するのは誤りであり、完璧な人物を欲していても、それを少なくとも存命の人物に求めるのは不幸の元である。できればすでに死去しており、かつ評価の定まった人物を選び師と仰ぐのが妥当だろう。私はプラトンソクラテスを尊敬し、ある意味私淑してはいるが、それでも晩年の彼らと接する事を想像してみれば、面倒な年寄りだというような幻滅を味わうような気がする。師というのは構造的に彼を持ち上げ仰ぎ見るものであれば、同じ地平に立って親しく接するのは学びにとって有用ではないだろう。

師は自ら選ぶものであり、時に幻滅させられるものであり、それでも学びを助けてくれる素晴しい存在である。それほど多くの師を持つ必要はないが、一人の師から世界の全てを学ぼうとすれば崇拝になり宗教に寄ってしまうので、それぞれの分野によって幾人かをあてにするべきなのだろう。