全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

Facebookのコメント報告機能が機能していない。

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BLOGOSに寄稿された記事に関して酷いコメントがついていたので非表示にして差別発言として報告した。
しかし解答は以下のような素っ気無いものだ。

差別的表現や記号が含まれるとご報告いただいたコメントを確認したところ、コミュニティ規定に違反するものではありませんでした。 

 コミュニティ規定を読むと差別意識を持って他者を攻撃すれば削除の対象となるそうだ。上の画像の例は該当しないとのことなので、FB上でいくら差別意識を発露しても、それが特定個人を攻撃する効果がなければ自由だと認められている事になる。
差別主義者にも自由に利用させ、広告料で儲けるFBは私の敵かもしれない。

シャルリーエブド事件についてフランス人から聞いた話

私にとってシャルリーエブド事件は非常に衝撃的であり、それを受けたフランス人及び欧米人の反応はやや理解に苦しむ部分があった。
たまたま友人に翻訳会社を経営するフランス人がいたので、捕まえて話を聞いた。
以下は彼の話を要約したものである。

フランス人は自由な社会に生きているが、道や型を知らずに放埓になってしまっている。だからこそ意識的か無意識的か、フランスには柔道人口が日本の3倍もいる。雪だるまを偶像とみなし作ることを禁じたイスラム学者がいたが、イスラム教の極端さと狭量さの例は枚挙に暇がない。全てのムスリム原理主義者ではないが、イスラムは元々原理主義的なものだ。フランスにおいて、あるいはフランス以外の国においても、移民のイスラム教徒は新しい国に溶け込まず、自分達のコミュニティに引きこもる傾向がある。そしてイスラム教国で暮らしていた時の抑圧や同調圧力から解放され、集合住宅の屋上で羊を屠るような、歪なムスリムになる場合がある。これは日本人でもあることで、パリに住む日本人の一部はフランス的ではないし、日本人的でもない不思議で変な存在になっている。フランス人は個人主義であり、他者の価値観を尊重する。そして価値観をあえて衝突させることで、ソフィスティケートされると信じている。それが行き過ぎると今回のような悲劇につながる事を、フランス人は学び今後のより良い社会に活かさないといけない。

その後日本人がイスラム国の人質として身代金を要求された後殺害され、シャルリー事件について語られる事が少なくなってしまった。
しかし、より深く考えなければいけないのは、日本人人質事件よりもシャルリー事件についてではないかと私は思う。
この事件を通じて始めて「涜神権」という権利を知った。ヨーロッパ人にとって教会から自由になるために必要な戦いがあり、その象徴なのだろう。その権利を守ろうとする彼らの立場は共感できるものだ。しかし、その涜神権を傘に異教徒や移民を差別していたとすれば、今回のような結末も自業自得と感じる。たとえ意図的でなくても、異教の預言者を冒涜する事と、異教徒や移民に対する差別意識が繋がっていたとすれば、それはムスリムの怒りの方が正当だろう。
私はシャルリー誌を直接手に取っていないし、これまでの論調も知らないので本当のところは分からないが、他山の石として私達の社会を見直さなければいけない。
特に他者について語る時に、その主張が自分の中の差別意識と、本当に決別できているかを検分しなければいけない。曽野綾子氏のようにならないためにも。

ブログの息苦しさについての雑感

このブログがごく偶にしか更新されないのも、ここ最近話題になっている「ブログの息苦しさ」の所為と言っていいだろう。

しかしこれはインターネットが真に社会インフラになった証左でもあり、むしろ歓迎するべきである。

何が息苦しさの正体かと言えば、自分よりも賢く正しい者から見られている事だろう。

私が日本経済の問題、あるいは性的少数者の問題について言及した時、その文章を見る人が増えれば増えるほど、専門家や研究者の目に触れる確率も高くなる。はてなのシステム的に、ホットエントリーとして扱われればほぼ確実に専門家の目に留まる。

私は少子高齢化や税制や、貧困や雇用やブラック企業や、今日の社会問題について語りたいとは思う。しかし私がその事について語る意味がはっきりしない事がある。各問題について私よりも詳しく賢明な人が多く存在する今、私がそれを語る必要は無いのではと思う。

私はパソコン通信からインターネットの黎明期を経験し、パソコンとテキストコンテンツがどのように変遷してきたかを感覚として記憶している。

検索エンジンの洗練によって求める情報への到達はごく容易になった。しかし誰もが簡単にテキストをネットに流し、さらには広告収入目当ての低俗なテキストが日々爆発的に発生する現状では、コンテンツの質はその平均値を日々下げ続けている。

人類にとって革命的であったはずのインターネットは、普遍化した事で全体的な印象が陳腐化してしまった。

もちろん道具としては日々洗練され、使い方によっては20年前に想像できなかったような素晴らしい出来事を起こしてくれる。しかし「インターネット」そのものに夢や希望を抱かせる神性は失われてしまった。

私たちは夢の技術を手に入れたので、今後は現実的にその技術を使ってより善い社会を作るプレッシャーを感じている。そしてブログのように気軽にテキストを公開し、残す作業は真に聡明な人が行ってこそ価値があり、無価値なテキストはデブリでしかない。

ブログを更新する時に気が重い理由はこれだろう。スペースデブリに擬えて「ネットデブリ」とでも呼ぶ事にしよう。私は自らネットデブリを生みたくはない。

長崎の女子高生による殺人について考えた事

再び「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが私たちの社会で流通している。
単純に答えるなら「それが社会のルールだから」で終わるだろう。
「なぜルールを守らなければいけないか」と問われれば、
「守らない者は社会から放逐されるからだ」と答えるだろう。
そこから先は本人が決めればいい。

 

少女は警察に逮捕され、今後は精神鑑定を受けたり児童自立支援施設に送られたりするのだろう。これは日本の法律に準拠した扱いであり、彼女は日本社会から危険な存在として納屋に閉じ込められたような生活になる。

 

私は日常テレビを見ないが、おそらく「なぜこんな痛ましい事件が」という問いかけが連日されていることだろう。それは何の意味もない問いであって、適当な理由をでっち上げて安心したい姑息な人向けである。

 

京極夏彦の「魍魎の匣」という推理小説を思い出す。これも少女が少女を殺した話だが、動機は極々些細な事であり、むしろ魔が差した、偶々偶然が重なりそれが可能な状況が発生した事が全てと言っていい結末だった。

 

私たちは他者を怖れる。友人を殺してしまう少女は、多くの人にとって全き他者であり、恐怖と嫌悪の対象でしかない。報道内容は少女の環境や評判を伝えるが、それは彼女を理解しようとする努力ではなく、理解不能な存在に押しやり社会から疎外する言い訳である。

 

私たちは殺されるのを怖れるのと同じく、自分が誰かを殺す事を怖れる。殺人者と自分との間に、何か一つでも共通点を見出す事が許せないのである。

 

殺してはいけないというのはただのルールである。

創価学会及び統一教会の関係者各位

公序良俗のためにぜひ法的対処をお願いします。
明らかな名誉毀損が「デモ」の名の下に行われ、さらには動画としてインターネットで世界に発信されています。

 

 

デモの名称は「朝鮮カルト犯罪撲滅デモ in高田馬場~早稲田」のようです。

主催は「外国人犯罪撲滅協議会」と「政教分離を求める会」。

デモの集合場所であった新宿区西戸山公園であからさまに民族差別、宗教差別的な演説が行われた模様です。

行進に先立って行われた演説では「朝鮮人が困る活動をどんどんやりましょう」(高木氏)「統一教会創価学会は邪教、カルト宗教だから排斥する」「昭和30年代に潰しておくべきだった」「二つの大きなキチガイ教団を叩き潰す」といった耳を覆いたくなるような差別的発言が次々に飛び出します。

このデモの責任者は有門大輔(ありかどだいすけ)氏。ビデオの9分前後から演説をしている人物です。
彼は「NPO法人外国人犯罪追放運動」の理事長を務めています。
団体の概要は以下の通りです。

NPO法人 外国人犯罪追放運動
本 部: 東京都台東区東上野 6-10-7-401
電 話: 03-3842-8805
メール:tuihouundou@gmail.com

機関紙:『安全への選択』
理事長ブログ:http://blog.livedoor.jp/samuraiari/
本部HP:http://gaitsui.web.fc2.com

 

次にマイクを握ったのは高木脩平(たかぎしゅうへい)氏。「外国人犯罪撲滅協議会」(外撲協)の共同代表であり、「護国志士の会」の局長なる人物です。

高木氏のブログ:http://blog.livedoor.jp/shishinokai/
高木氏のtwitter:http://twtr.jp/TakagiShuuhei

 その次は動画の13分前後から演説をする渡邊昇(わたなべのぼる)氏。彼が所属する「日本の心を学ぶ会」の所在等は以下の通りです。

「日本の心を学ぶ会」
所在地:埼玉県川口市安行藤八33-13
電話:090-8770-7395
代表:渡邊昇
web:http://nihonokokoro.blog21.fc2.com/

その後、19分30秒前後からマイクを握るのは「政教分離を求める会」代表の瀬戸弘幸(せとひろゆき)氏です。

web:http://seikyou-bunri.net/
mail:info@seikyou-bunri.net

個人ブログ:http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/

所在地:〒110-0015 東京都台東区東上野6-10-7 金子ハイツ401

 

 最後は「在特会」(在日特権を許さない市民の会)千葉支部長、田村宗長(たむらむねのり)氏。

https://twitter.com/monomini4444
http://zaitokuchiba.blog.fc2.com/
zaitokutiba@gmail.com

 

横断幕には以下のように書かれていました。

創価学会集団ストーカー犯罪撲滅!
朝鮮カルト撲滅!
神を騙る犯罪組織
神罰仏罰下せ!」

 

このような人種差別、宗教差別は断固として許されるものではありません。
しかしながら、現時点では刑法に触れなていないという事を理由に、彼らは許されていると身勝手に解釈しています。
せめて誹謗中傷、名誉毀損の被害者である創価学会統一教会、また朝鮮半島出身の方々に、抗議の声を挙げて頂きたいと思います。
私は一人の日本人として、差別主義者である彼らを恥ずかしく思い、せめて敵の姿が見えやすいようにとこの記事をまとめました。
志ある皆様の行動によって、多くの良心的な日本人を助けて下さい。
そして全ての人種と宗教を越えた友情が、この国の中に遍く行き渡る事を祈っています。

警察権行使に伴う人権侵害防止に関する提言

先日大手新聞のweb版において気になるタイトルがあった。

”「〇〇」は無職で生活保護受給、現場の微物とDNA型一致”

「〇〇」の部分は通称というか、被疑者が名乗った偽名であるけれど当然記事の本文には氏名が記載されている。
仮にこの被疑者が犯人であって刑事罰を受けたとしても、この報道によって生活保護を受給していたこと、刑事事件を起こした事を長期間公衆の目の届く場所に晒される事は、今後の更生や社会復帰に関しても著しい不利益となるだろう。

そもそもこの記事には被疑者は容疑を否認しているとある。現場に残されていた微物と被疑者のDNA型が一致とあるが、誤認逮捕や証拠捏造もままあるなかで、被疑者の人権を侵害するほどの報道価値があるかと言えば甚だ疑問である。

 

被疑者逮捕の報道には、被害者や関係者、現場近くに居住や勤務する人々に安堵感を与えるという正の側面がある。しかし、それは「◯◯事件の被疑者逮捕」という一文で得られる効用である。起訴すらされていない被疑者の氏名やあまつさえ生活保護云々といった報道には、被疑者のような人を見下し、社会から排除しようとする歪んだ正義感を感じる。

 

逮捕そのものに社会的制裁の意味を増す事で、犯罪を抑止しようとする警察や検察の意図も感じられる。これは死刑が抑止力足るかの議論とも共通するが、おそらく多くの刑事犯は自分が将来受けるだろう刑事罰を勘案した上で法を犯すわけではない。罰を重くすれば犯罪者が減るわけではない事は、統計的に枚挙に暇がないであろう。

一度刑務所に入った受刑者の再犯率は高く、出所後に犯罪とは無縁に社会生活を送る難しさがむしろ再犯を助長し刑事事件の件数を増やしているのではと考られる。インターネット上に氏名や社会的属性、政治的姿勢などが事件と共に記録される事は、当事者が就職したり結婚したりという基本的人権を間接的に侵害するおそれが大いにある。

これらの問題から、警察による逮捕時点、検察による起訴時点では被疑者・被告人の氏名や個人に関わる情報の報道を禁止すべきである。また、受刑者となった後も氏名等の報道には本人の同意を条件にするべきである。我々市民に必要なのは、事件の被疑者が拘束され、同一人物による事件の再発が防止されているという情報のみである。犯罪に対する罰は司法の仕事であり、市民社会はそれとは無縁に営まれるべきである。

解釈改憲に対する怒りと悲しみ

自公が集団的自衛権に関する解釈改憲について合意に至ったと報道された。
私は概ね自民党の政策を支持しているが、これについては裏切られたと感じる。
9条を含め、正式な手続きを経た上での改憲ならば支持できるが、軍事力の運用に関する大幅な方針転換について、立法の邪魔になる憲法を解釈だけ変えてしまおうという姑息かつ横暴な手法は到底認められない。
これに関してはファシストの誹りを免れ得ないであろう。

憲法解釈の変更について私が責任を取ると安倍晋三総理は宣ったが、安倍総理が退任した後にも憲法解釈は引き継がれ、解釈改憲の前例は残る。
将来の総理がさらなる解釈改憲によって、主権者たる我々の権利を侵害し始めた時に、どうやって安倍晋三氏は責任を取れるというのか。
クーデーターでも起こしてくれるのだろうか。
いったい何歳まで健康な予定か知らないが、日本の将来に関わる一大事であり、たとえ総理総裁と言えども個人で責任を取れる類のものではない。

戦争放棄を謳っているから憲法が重要なのではない。
私達の権利を守ってくれるから憲法が重要なのだ。
安倍総理と政府与党に反対の聲を上げるのは、まさに憲法に記された国民の義務である。

日本国憲法第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 

 もちろん解釈によって憲法を変えようとする行為は99条に反する。

日本国憲法第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。 

 過去には村山富市総理が自衛隊を合憲であると解釈した事が憲法解釈変更の大きな例として挙げられる。
しかしこれとて自衛隊が抑止力をもって安全保障に貢献しているという現状に合わせて憲法解釈を表明したに過ぎず、立法の妨げになるからと憲法解釈を変えた例は寡聞にして知らない。
しかもそれが軍事力の運用であり、戦争に関わる法律となれば議会のそれも与党だけで決めていい訳がない。

憲法改正よりも解釈改憲の方が時間がかからず現実的だとはアーミテージ元米国務副長官らが言及している通りアメリカの意向でもある。
アメリカの国益のために日本の憲法を蔑ろにするようでは、いつまで経っても日本は植民地で二流国家に甘んじるのではないか。
「日本を取り戻す」というキャッチフレーズを使った安倍総理はもしかするとアメリカ人なのだろうか。