ブログの息苦しさについての雑感
このブログがごく偶にしか更新されないのも、ここ最近話題になっている「ブログの息苦しさ」の所為と言っていいだろう。
しかしこれはインターネットが真に社会インフラになった証左でもあり、むしろ歓迎するべきである。
何が息苦しさの正体かと言えば、自分よりも賢く正しい者から見られている事だろう。
私が日本経済の問題、あるいは性的少数者の問題について言及した時、その文章を見る人が増えれば増えるほど、専門家や研究者の目に触れる確率も高くなる。はてなのシステム的に、ホットエントリーとして扱われればほぼ確実に専門家の目に留まる。
私は少子高齢化や税制や、貧困や雇用やブラック企業や、今日の社会問題について語りたいとは思う。しかし私がその事について語る意味がはっきりしない事がある。各問題について私よりも詳しく賢明な人が多く存在する今、私がそれを語る必要は無いのではと思う。
私はパソコン通信からインターネットの黎明期を経験し、パソコンとテキストコンテンツがどのように変遷してきたかを感覚として記憶している。
検索エンジンの洗練によって求める情報への到達はごく容易になった。しかし誰もが簡単にテキストをネットに流し、さらには広告収入目当ての低俗なテキストが日々爆発的に発生する現状では、コンテンツの質はその平均値を日々下げ続けている。
人類にとって革命的であったはずのインターネットは、普遍化した事で全体的な印象が陳腐化してしまった。
もちろん道具としては日々洗練され、使い方によっては20年前に想像できなかったような素晴らしい出来事を起こしてくれる。しかし「インターネット」そのものに夢や希望を抱かせる神性は失われてしまった。
私たちは夢の技術を手に入れたので、今後は現実的にその技術を使ってより善い社会を作るプレッシャーを感じている。そしてブログのように気軽にテキストを公開し、残す作業は真に聡明な人が行ってこそ価値があり、無価値なテキストはデブリでしかない。
ブログを更新する時に気が重い理由はこれだろう。スペースデブリに擬えて「ネットデブリ」とでも呼ぶ事にしよう。私は自らネットデブリを生みたくはない。