全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

安倍政権と2018年7月時点の所感

2012年の年末に成立した安倍内開は改造や選挙を経て2018年7月の現時点まで継続している。この間世に明らかになった不正義と不誠実、不公正と虚偽の数々は文字通り枚挙に暇がなく、それをすると病みそうなので私より強靭な精神を有する諸氏に託す。
私は他者を罵るような表現は原則的に不道徳と考えているが、それが国家という巨大かつ所属変更が困難な共同体の権力者であれば例外である。つまり、私はこれから安倍晋三を罵るような文言を連ねる覚悟である。
安倍晋三は嘘つきである。これはもう誰の目にも明らかであろう。彼は自分の立場であるとか自尊心というものが脅かされた時には反射的にそれを否定する嘘をつく。おそらく意図も思慮もなく、それは精神の反射なのだ。だから安倍晋三に嘘をつきましたねと咎めても無駄だとすら思っている。おそらく本人も反射的に嘘をつく事を反省することはないのではないか。何しろそこには判断を差し挟む隙がなく、責任が問えないかもしれないほど自然に行われる自衛行為なのだ。そういう姑息な人間がある程度存在するのは仕方がないが、日本国民にとってそういう安倍晋三が最高権力者として5年以上の長期にわたって居座っている事が非常な悲劇である。
まともな野党が安倍晋三と内閣の面々の資質の欠如を指摘する一方で、ほとんど誰もその職を辞してはいない。また米国と経団連から言われるままに現在と未来の国民を一層苦境に立たせるような法律や予算を次々と成立させている。野党や心ある知識人は全力で安倍内閣を批判し退陣を求めているが、いまだにそれは叶っていない。これをもって野党が無能であるとか、安倍内閣の存続自体が民意に拠っていると喧伝する層がいるが、彼らが平均的な安倍政権支持者の姿だと私は考えている。

与党支持者にしてもより狭い集合である安倍政権支持者にしても、安倍晋三と内閣の面々が無謬であるとは考えていないだろう。もちろん権力者が無謬でなければならないわけではないが、権力者にはその力に応じた倫理観や資質が当然求められるものである。しかしながら、前述のように安倍晋三には反射的に嘘で身を守る癖があり、また知性の乏しさからか公正であるよりも身内を優遇するのが道徳的に正しく美しいと信じている節もある。法治主義立憲主義に拠って立つ近代国民国家において、まさに安倍晋三ほど不適正な人物もいないと思われるのだが、全く不幸な事にすでに彼が総理大臣の座に5年を超えて座り続けている。

この不幸の原因はいろいろあるものの、結局は主権者たる日本国民全体の、民主主義、法治主義立憲主義への無理解が土台となってしまっている。ここで少し飛躍するが、これらの政治的な主義、ismというのは優れて概念的なものである。そもそも主義などというのは具象ではありえず、どこまでも抽象的であるが故に、知的な想像力を有する人間でなければ理解できず議論も成り立たない。乱暴に言ってしまえば、民主主義という抽象概念を用いて投票やデモなど現実に行動するためには知性が必要なのだ。そして、非常に残念な事に日本の最高権力者である安倍晋三当人に一般の主権者として求められるレベルの知性さえ不足しており、必然的に周囲には知性の欠如した人々が集まり、もしかすると日本の現内閣の中には民主主義、法治主義立憲主義を大学法学部のレベルで理解できている人が誰もいない可能性すらある。もちろん閣僚の多くは安倍晋三よりもよほどまともな知性をもっているはずだが、彼らは権力の座にいるためか、その知性を放棄して、無知な安倍晋三のご機嫌を伺う事を主な仕事にしているようだ。

結局投票率の低さも安倍内閣の支持率の高さ(低くなさ)も、大衆の政治理解の低さと知性の欠乏に因ると私は考えている。本来は教育によって全ての人間が知性を得て、個性を活かしながら個性的な幸福を享受する生活を送れるようにする責任が近代国家にはある。しかし国民国家という制度を深く理解しないまま取り入れた日本においては、戦前は兵隊を作るために、戦後は兵隊のような労働者を作るために教育が利用され、自分で考えず、上役の指示命令に黙って従う人々を工場のように生産し出荷し続けてきた。少し語弊があれば、そうしようと少なくない資本家と政治家が意図して仕組みを作ってきた。目的が無批判で兵隊のような労働者の生産であれば、労働法をはじめとした権利について教えるべきではないし、抽象的な思想を身に付けさせる必要もない。文字通り読み書きそろばん、ワードとエクセルが使えて車の運転でもできれば後は職場における特殊な慣習に染め上げて安価な労働力として利用すればいいのだ。

日本国民は特に義務教育とされる小学校と中学校に何かを期待してはいけないし、省庁の管轄下にある高校も大学も結局は組織の建て付けとして無思考無批判な人間を生産するようになっている。教育を受けさせる立場であればインターナショナルな組織に託す方がいいし、自らを教育するならば文部科学省などの影響を受けていないような機関を利用する方がいい。いわゆる学校組織に入らずとも、岩波文庫であるとか信頼のおける出版物の中から人の勧めに従ってテキストを選んでもいいだろう。日本においては普遍的な教育を受けるためには誰かに私淑する必要があると私は思う。様々な言動を見て、信頼に足ると感じた人をなぞるのが自らを教育する時の指針になるだろう。

知的になる事は幸福になる事とは別の事である。しかし、幸福とは何かを理解するためには知性が必要なのだから、つまり本当の意味で幸福な人は知的な人の中にしかいない。