全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

豊かな社会の尺度について

障害児の教育に掛かる社会的資源を節約する目的で、出生前診断の拡大を望む人がいるらしい。それが一市民ならそういう人もいるだろうとしか思わないが、とある県の教育委員長だったから大きく報道された。


たしかに障害児の教育には大きなコストがかかり、またコストをかけて教育した結果が社会を豊かにする結果に繋がらないと考える人もいるだろう。ここで問題になるのは何をもって「豊かな社会」を測るのかということだ。


たとえば茨城県で油田が見つかり、税金は廃止されて県民給付金が毎月100万円ずつ出る社会になったとしたら相当に豊かであるような気がする。しかし一方で、県境には検問が設けられ、茨城県への移住には厳しい審査が行われた上で年間数名しか受け入れられず、しかも出生前診断と障害児であると疑われた場合の堕胎が義務付けられたとしたら、そこは豊かな社会だろうか。

 

障害児の教育へ大きなコストが払われるのは、彼らにも教育を受ける権利があり、最低限文化的で幸福な生活を送る権利があるからであり、そのような人権が守られているのは豊かな社会だろう。確かに経済の低迷や長期的な人口減少のトレンドを考えれば、あらゆる公共サービスのコストについて、その必要性や妥当性が検討されるべきかもしれない。しかし、事人権に関しては、貧すれば鈍すでは許されないのだ。私たちが今享受している当然の権利は、多くの先達が血と涙を流して、文字通り命懸けで確立したものなのだから。たかが金のために譲り渡していいようなものではない。

 

教育は、決して社会や国家のために施されるものではない。それは個人がより人間的に成熟し、人類の歴史と叡智に触れる機会である。なぜ教育者が聖職者と呼ばれてきたのか、関係者には今一度考えていただきたい。