全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

政治の憂鬱と学習という政治運動

ここ数日ブログ上の応酬を眺めていて、心情的にはプロブロガー志望の世間知らずさにうんざりしている。
そもそもブログは操作の簡便な記録手段でしかなく、それが価値を持つとすれば記録の内容か記録する人に希少性や有用性がある場合に限られる。
残念な事に表示数とクリック数に比例して広告料が支払われるシステムのせいで、本来評価されるべきでない低俗で扇情的、差別的、露出趣味な情報が氾濫するようになった。

何ら特殊な情報や経験を持たずにプロブロガーを目指す彼は無知で哀れだが、それよりもネット広告の形がインターネットの良さを損なっていると言えるだろう。

私達は歴史的に見て最も学習コストの低い時代に生きている。100年前のどんな学者も辿りつけなかった知の頂に、まるでハイキングの気軽さでそこに立つ事もできる。
しかし結局のところ、インターネットという革命的な学習の道具を目の前にして、多くの人々は博打や遊戯に絡め取られ学ぶ時間を奪われている。

誰もが哲人であるべきだとは言わぬまでも、せめて自然な言葉で議論が成立する程度の教養を身に付けて欲しい。

政治家の言動を見て、地方選挙の選挙活動を見て、どれほど政治家のレベルが低いのか思い知らされる。それは同時に我々有権者のレベルの低さでもある。
日本のほとんどの教育機関は愚かで従順な労働者、納税者の生産を目的としている。
この国の現状を改善しようと願うならば、国家の影響から外れた場所で学習しなければいけない。

私達は賢くなれる。
しかし「私達」を拡大していく方法は容易ではない。