全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

長崎の女子高生による殺人について考えた事

再び「なぜ人を殺してはいけないか」という問いが私たちの社会で流通している。
単純に答えるなら「それが社会のルールだから」で終わるだろう。
「なぜルールを守らなければいけないか」と問われれば、
「守らない者は社会から放逐されるからだ」と答えるだろう。
そこから先は本人が決めればいい。

 

少女は警察に逮捕され、今後は精神鑑定を受けたり児童自立支援施設に送られたりするのだろう。これは日本の法律に準拠した扱いであり、彼女は日本社会から危険な存在として納屋に閉じ込められたような生活になる。

 

私は日常テレビを見ないが、おそらく「なぜこんな痛ましい事件が」という問いかけが連日されていることだろう。それは何の意味もない問いであって、適当な理由をでっち上げて安心したい姑息な人向けである。

 

京極夏彦の「魍魎の匣」という推理小説を思い出す。これも少女が少女を殺した話だが、動機は極々些細な事であり、むしろ魔が差した、偶々偶然が重なりそれが可能な状況が発生した事が全てと言っていい結末だった。

 

私たちは他者を怖れる。友人を殺してしまう少女は、多くの人にとって全き他者であり、恐怖と嫌悪の対象でしかない。報道内容は少女の環境や評判を伝えるが、それは彼女を理解しようとする努力ではなく、理解不能な存在に押しやり社会から疎外する言い訳である。

 

私たちは殺されるのを怖れるのと同じく、自分が誰かを殺す事を怖れる。殺人者と自分との間に、何か一つでも共通点を見出す事が許せないのである。

 

殺してはいけないというのはただのルールである。