全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

経験からの学びを最大化するということ、真面目な愚者としての振る舞い

僕らは日々様々な事象を経験している。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とは金言だが、もちろん経験にすら学ばない愚者よりも愚かな者はこの言葉の埒外にある。
できれば賢者を目指したいところだが、愚者や賢者というのも結局相対的なものであって、全員が賢者となればやはりその中に階層が生じる事が必然だろうと思う。

せめて経験から学べる機会を見逃さず、出来る限りその効能を最大化しようというのがこの記事の趣旨である。
人生経験から得た自己評価において賢者とは程遠い自分に対し、高望みせずかつ自暴自棄にならず、慎ましく研鑽せよと自戒する。

例えばこの記事は真夜中に日本酒を飲みながら書かれている。
僕は30代の成人男性だが、体質的に酒に弱く飲酒の経験が一般と比較して浅いので、酒の旨さがよく分かっていない。
味覚にも教養と呼ばれるべきものがあり、そのものの良さを理解するには、一定の経験を経る必要があると僕は思う。
最近は居酒屋などで乾杯のビールすら飲まない若者が多いと聞いて、個人の嗜好を尊重するが故に彼らが酒と特にビールの旨さを理解するに至る教養を得る機会を失っているのではないかと少しだけ残念な気持ちになる。
ビールの旨さは美味くないビールを何十リットルか百数十リットル飲んだ後でないと分からないだろうと思う。ビールの旨さを知る人間が減れば、畢竟旨いビールは世の中から失われてしまう。残念な事に。

酒を飲む経験をより有意義にしようと意識した時に最初に思い付くのは旨い酒を見付ける事だ。どの時代どの社会においても、美食は上流階級において必須の教養である。仕事も含めより賢く優秀な人間と関係しようと思えば、味の良し悪しを判断出来る事はかなり重要になるだろうと思う。

酒の旨さや良し悪しは、当然飲まなければ判断できないしその能力も開発されない。そして今日の日本においては酒を飲む機会は相当に制限されている。
数少ない飲酒の機会を得た時には、酒の旨さを理解する努力、旨い酒を見つける努力、酒に合う肴を知る努力をするのが合理的である。
どの酒が旨いかを経験的に知り、それを臆せず語れれば魅力的で有能な人と懇意になれる機会が拓けるかもしれない。