全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

政治的に美しい物語の戦い

ある活動家と話をする機会があって、改めて感じた事。
旧来の左翼やリベラルは「正しさ」とか「正義」とか「平等」を美しいものとして活動し、運動を展開した。
しかし現代においてはインターネットの一般化によって、若年者・無学者が大いに自説を開陳し、近しい層をオルグしてしまう。
伝統的な左翼のオルグには啓蒙の面も多少はあったように思うが、いわゆるネット右翼オルグは啓蒙から遠く離れ愛国ポルノが蔓延している。
問題なのはその愛国ポルノが、純朴な目に美しく見える事だ。
「日本はアジアを解放して今でも感謝されている」「日本は世界中から尊敬されている」
これらの甘言は現実的な将来に希望が抱きにくい若年層にとって、自尊心を満足させる強い力がある。

日本の国力が相対的に低下し、貧困化が身近にせまる暗い日常において、左派は弱り右派が強くなっている。
これは主に若い世代が社会や世界に関心を向ける余裕がなくなっている事が大きな要因なのだろう。
遠い中東の正義に関心をはらうためには、長期的に生活が向上していくイメージが必要だから。

状況を改善するためには、政治を若者優遇に切り替え、一定以上の水準に豊かにしてやればいいのだろうと思う。
それが財政的、政治的に困難ならば、やはり左派が右派の物語よりも美しい物語を提供しなければいけない。
若者の貧困な想像力から外れ過ぎない範囲で、正しく美しい物語を新しい左派で作らなければ衰退は今後も続くだろう。

少子化に抗うために早婚を奨励するべきか

日本人の生涯未婚率が急激な上昇を見せていると話題になった。
現在出産適齢期にある世代は一人子として育った率も高く、晩婚化傾向と組み合わさる事によって結婚や子育ての前に親の介護の必要が発生する率が高まっている。
30代後半以上の年齢になれば、男女とも配偶者としての市場価値が低下し、もしそれに親の介護が入ってくれば貧困化にも容易に至り結婚と出産は相当に困難になる。

これまで文化的にはいわゆるヤンキーと呼ばれる低学歴低収入層の早婚と若年出産が一般層から白い目で見られてきた。
しかしながら、大卒まで中流家庭に育った子女が30代の半ばに差し掛かると、容姿や収入でネガティブな要因を持っていると未婚のまま歳を重ねてしまう率が高くなってしまう。
自身の加齢、また父母の加齢による介護リスクを鑑みれば、ある程度若いうちに相手を見つけて結婚、出産してしまうのが合理的にも思える。

いわゆるヤンキー層は行動原理の浅薄さや長期的見通しの欠如が批判と嘲笑の要因になっていたと思われるが、長期的見通しを持っていた層も微妙な目論見外れが続いた結果、高齢未婚で親の介護による失業という非常に困難な身分に陥りかねない時代である。
こうなっては文化的価値観を人工的に転換し、結婚と出産は早ければ早いほどかっこいいという評価を巷に蔓延らせる事が少子化に抗う一つの有効な方法なのではないかと感じる。

まずは隗より始めよで、身近に早婚多産のヤンキー家族を見たら無理やりにでも彼らの決断力と生命力を称えてみようと思う。

世界と自分の境界はひとつしかない

人間は一人で産まれて一人で死ぬ。
双子で産まれようが大量虐殺で何千人と一緒に殺されようが、感覚や認知は結局共有できないものだ。
だから孤独に耐える覚悟と諦観が必要なのだ。
人間存在の孤独を無視する者は、おそらく浅薄な世界に生き、浅薄な存在として死んでいく。厳しい言い方をすれば本当に理性的な存在にはなりきれないだろう。

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私達は他者を発見し、他者との関係性を利用して自我の境界を定め、世界を認識する。
自分と自分でないものを、自分でない人間の存在感を頼りに探り当てる。
自分という存在の小ささと無力さを自覚して後に、やっと本来の人間らしい活動が可能になる。

我々は高度に発展し複雑化した社会に生きる事を強いられている。
不自由や不愉快も多いが、その社会がもたらす安全の担保や快適さとバランスして、ほとんどの人は社会の内側で生きる事を選ぶ。
しかし今日のような非生物的な社会人には、相当な時間を自分自身と向き合う事に費やす必要が出てくる。
目覚めればありとあらゆる方向から情報が押し寄せ、刺激が襲ってくる。
だからこそ社会の外にいる時の自分自身というものを、時間と手間を使って発見しなければいけない。
それは理性的に存在するために、今日不可欠な行為である。

政治の憂鬱と学習という政治運動

ここ数日ブログ上の応酬を眺めていて、心情的にはプロブロガー志望の世間知らずさにうんざりしている。
そもそもブログは操作の簡便な記録手段でしかなく、それが価値を持つとすれば記録の内容か記録する人に希少性や有用性がある場合に限られる。
残念な事に表示数とクリック数に比例して広告料が支払われるシステムのせいで、本来評価されるべきでない低俗で扇情的、差別的、露出趣味な情報が氾濫するようになった。

何ら特殊な情報や経験を持たずにプロブロガーを目指す彼は無知で哀れだが、それよりもネット広告の形がインターネットの良さを損なっていると言えるだろう。

私達は歴史的に見て最も学習コストの低い時代に生きている。100年前のどんな学者も辿りつけなかった知の頂に、まるでハイキングの気軽さでそこに立つ事もできる。
しかし結局のところ、インターネットという革命的な学習の道具を目の前にして、多くの人々は博打や遊戯に絡め取られ学ぶ時間を奪われている。

誰もが哲人であるべきだとは言わぬまでも、せめて自然な言葉で議論が成立する程度の教養を身に付けて欲しい。

政治家の言動を見て、地方選挙の選挙活動を見て、どれほど政治家のレベルが低いのか思い知らされる。それは同時に我々有権者のレベルの低さでもある。
日本のほとんどの教育機関は愚かで従順な労働者、納税者の生産を目的としている。
この国の現状を改善しようと願うならば、国家の影響から外れた場所で学習しなければいけない。

私達は賢くなれる。
しかし「私達」を拡大していく方法は容易ではない。

Facebookのコメント報告機能が機能していない。

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BLOGOSに寄稿された記事に関して酷いコメントがついていたので非表示にして差別発言として報告した。
しかし解答は以下のような素っ気無いものだ。

差別的表現や記号が含まれるとご報告いただいたコメントを確認したところ、コミュニティ規定に違反するものではありませんでした。 

 コミュニティ規定を読むと差別意識を持って他者を攻撃すれば削除の対象となるそうだ。上の画像の例は該当しないとのことなので、FB上でいくら差別意識を発露しても、それが特定個人を攻撃する効果がなければ自由だと認められている事になる。
差別主義者にも自由に利用させ、広告料で儲けるFBは私の敵かもしれない。

シャルリーエブド事件についてフランス人から聞いた話

私にとってシャルリーエブド事件は非常に衝撃的であり、それを受けたフランス人及び欧米人の反応はやや理解に苦しむ部分があった。
たまたま友人に翻訳会社を経営するフランス人がいたので、捕まえて話を聞いた。
以下は彼の話を要約したものである。

フランス人は自由な社会に生きているが、道や型を知らずに放埓になってしまっている。だからこそ意識的か無意識的か、フランスには柔道人口が日本の3倍もいる。雪だるまを偶像とみなし作ることを禁じたイスラム学者がいたが、イスラム教の極端さと狭量さの例は枚挙に暇がない。全てのムスリム原理主義者ではないが、イスラムは元々原理主義的なものだ。フランスにおいて、あるいはフランス以外の国においても、移民のイスラム教徒は新しい国に溶け込まず、自分達のコミュニティに引きこもる傾向がある。そしてイスラム教国で暮らしていた時の抑圧や同調圧力から解放され、集合住宅の屋上で羊を屠るような、歪なムスリムになる場合がある。これは日本人でもあることで、パリに住む日本人の一部はフランス的ではないし、日本人的でもない不思議で変な存在になっている。フランス人は個人主義であり、他者の価値観を尊重する。そして価値観をあえて衝突させることで、ソフィスティケートされると信じている。それが行き過ぎると今回のような悲劇につながる事を、フランス人は学び今後のより良い社会に活かさないといけない。

その後日本人がイスラム国の人質として身代金を要求された後殺害され、シャルリー事件について語られる事が少なくなってしまった。
しかし、より深く考えなければいけないのは、日本人人質事件よりもシャルリー事件についてではないかと私は思う。
この事件を通じて始めて「涜神権」という権利を知った。ヨーロッパ人にとって教会から自由になるために必要な戦いがあり、その象徴なのだろう。その権利を守ろうとする彼らの立場は共感できるものだ。しかし、その涜神権を傘に異教徒や移民を差別していたとすれば、今回のような結末も自業自得と感じる。たとえ意図的でなくても、異教の預言者を冒涜する事と、異教徒や移民に対する差別意識が繋がっていたとすれば、それはムスリムの怒りの方が正当だろう。
私はシャルリー誌を直接手に取っていないし、これまでの論調も知らないので本当のところは分からないが、他山の石として私達の社会を見直さなければいけない。
特に他者について語る時に、その主張が自分の中の差別意識と、本当に決別できているかを検分しなければいけない。曽野綾子氏のようにならないためにも。

ブログの息苦しさについての雑感

このブログがごく偶にしか更新されないのも、ここ最近話題になっている「ブログの息苦しさ」の所為と言っていいだろう。

しかしこれはインターネットが真に社会インフラになった証左でもあり、むしろ歓迎するべきである。

何が息苦しさの正体かと言えば、自分よりも賢く正しい者から見られている事だろう。

私が日本経済の問題、あるいは性的少数者の問題について言及した時、その文章を見る人が増えれば増えるほど、専門家や研究者の目に触れる確率も高くなる。はてなのシステム的に、ホットエントリーとして扱われればほぼ確実に専門家の目に留まる。

私は少子高齢化や税制や、貧困や雇用やブラック企業や、今日の社会問題について語りたいとは思う。しかし私がその事について語る意味がはっきりしない事がある。各問題について私よりも詳しく賢明な人が多く存在する今、私がそれを語る必要は無いのではと思う。

私はパソコン通信からインターネットの黎明期を経験し、パソコンとテキストコンテンツがどのように変遷してきたかを感覚として記憶している。

検索エンジンの洗練によって求める情報への到達はごく容易になった。しかし誰もが簡単にテキストをネットに流し、さらには広告収入目当ての低俗なテキストが日々爆発的に発生する現状では、コンテンツの質はその平均値を日々下げ続けている。

人類にとって革命的であったはずのインターネットは、普遍化した事で全体的な印象が陳腐化してしまった。

もちろん道具としては日々洗練され、使い方によっては20年前に想像できなかったような素晴らしい出来事を起こしてくれる。しかし「インターネット」そのものに夢や希望を抱かせる神性は失われてしまった。

私たちは夢の技術を手に入れたので、今後は現実的にその技術を使ってより善い社会を作るプレッシャーを感じている。そしてブログのように気軽にテキストを公開し、残す作業は真に聡明な人が行ってこそ価値があり、無価値なテキストはデブリでしかない。

ブログを更新する時に気が重い理由はこれだろう。スペースデブリに擬えて「ネットデブリ」とでも呼ぶ事にしよう。私は自らネットデブリを生みたくはない。