全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

能登半島地震について

元日から大きな地震が起こった。

私の暮らす町は遠方であり直接の影響はないものの、真冬にライフラインが絶たれたり、住み慣れた家を失ったり、愛する人を失ったりした人々の苦難を想像すると気持ちが沈んでゆく。
そして、自宅で石油ストーブに当たりながら、明るい部屋でパソコンを開いている自分の在り方を疚しく感じてしまいそうになる。

この島国で暮らしている以上、地震で被災して住居や財産を一瞬で失う確率は無視できるほど低くはない。それは毎日気に病む事でないにしろ、頭の片隅に置きながら、備えと諦観をしなければならない。

年末に國分功一郎の「暇と退屈の倫理学」を文庫で買って少しずつ読み進めている。それによれば、ヒトという種にとって定住こそ革命的な転換であったようだ。定住によってヒトは技術や文化の蓄積を始めたし、逆に野生動物としては一段と弱くなったのだろう。そして、地震津波といった災害によって生死を分けられるようになったのも、強固な建造物の中に定住しているからだとも言える。

不動産商品のキャッチコピーのようだが、生きるとは住む事だと言い換えても私達はそれほど違和感を感じないだろう。しかし、いまからおよそ1万年前にヒトが定住を始める前は、私達の使う「住む」とか「暮らす」に対応した言語や概念は存在していなかったのではないだろうか。寒い、空腹、暗い、痛いといった身体感覚については変わっていないはずだし、それについての言語もあっただろう。しかし、生まれてから死ぬまで、短期間で短距離を移動し続ける人々は、今私達が心を痛めている「住処を失った人々の苦難」が想像できないだろうなとも思う。

私達人間は弱い。歴史的に科学と文化を進歩させ続けてきたとしても、動物としては弱くなっているだろう。その弱さを補う最も肝要な文化が、共同体を成す事であり、共感と同情をもって互助する事である。個としての弱さを群れで補完し合ってきたことで、人間は今日まで滅びずに、繁栄もしてきた。今一度、私達が本当の意味の共同体に属し、弱さを補い合う関係の中に存在できているかを点検する時ではないかと考えている。

プーチンの戦争について(2022/3/10)

ロシアがウクライナに軍事侵攻して2週間が経った。

数日前の段階で200万人のウクライナ人が国外へ避難し、2万人の義勇兵ウクライナに入った。

廃炉作業中のチェルノブイリ原発が攻撃され、電源を喪失している。ザポリージャ原発もロシア軍に掌握されている。

週刊誌の記事ではプーチンが暗殺された場合など「死の手」と呼ばれるシステムにより、世界中に核ミサイルが発射されるだろうとも言われている。

核の無差別発射は眉唾にしても、キューバ危機を超える世界的な緊急事態になっているとも言われる。

その状況に私個人は全く無力である。多くの日本に暮らす市民も同様であるだろう。だからかテレビでは戦争の話題を扱いはするものの、いまだに他のスポーツやゴシップと並列的に見える。

私はどのように振る舞うべきなのだろうか。ウクライナの人々の惨状をスマートフォンの画面越しに見て、プーチンに騙されたと語るロシア兵捕虜の姿を見て、ミサイルで容赦なく破壊されるキーフやその他のウクライナの都市を見て、私はどのように振る舞えばいいのだろう。

ひとまず呆然として、何もできないながらも今の世界を知り考える事をしなければならないと思う。

日本政府は自衛隊の装備品のうち、対戦車砲こそ断ったそうだが、ヘルメットや防弾チョッキをウクライナの求めに応じて供出し自衛隊機で届けに向かった。私はこれは間違いであると考える。

人の命を救う道具だとしても、兵士やゲリラの身を守る事に使われ、彼らが逆にロシア兵を殺す事になるかもしれない。ゲリラが迷彩柄の防衛装備を見に付けていれば、それだけで標的となりやすく、逆にウクライナ人の死を招くかもしれない。日本政府と日本国民はその責任を負わなければならない。傍観にも責任はあるが、防御装備の提供には相対的により重い責任が生じるだろう。ロシアの軍事侵攻は国際法違反の愚挙であるが、銃弾とミサイルの飛び交う戦地に、片側に向けて防衛装備を提供するのは軍事支援であり紛争介入や参戦とみなされても不思議はない。日本国憲法の掲げる戦争放棄と平和主義とは相容れない行いである。

戦争という最悪の人権侵害が今この瞬間にも進行しているが、私にできる事は自国の政府の拙速な行動を批判する事に留まる。独裁と専制が戦争に繋がる事をロシアとプーチンから学び、自国が民主制によって政治が行われる状態を実現しなければならない。今よりも状況が悪くなろうとする憲法の改正や非民主的な勢力の台頭に否と声を上げ続けなければならない。民主制が正しく機能するように、隣人をより政治的に成熟するように、地域でも主権者、有権者としての活動と表現を続けなければならない。間違った事に間違いだと表現し続けなければならない。

そしてゼレンスキー大統領のヒロイックな徹底抗戦の構えは、勇ましく美しくすらあるものの、それがより多くの人の命を奪っているのではないかと胸が痛い。たとえ世界の民主主義、自由主義を背負って戦ってくれているのだとしても、一人でも多くのウクライナの人々の命が助かって欲しいと願う。そしてこの戦争が終わった後に、一つの国家主義的なネイションステートが確立する事にも言いようのないわだかまりを感じる。

侮辱された怒りと、その方向について

まさかできるはずがないと思っていた東京オリンピックが、今日(2021年6月24日)になっても開催の前提で物事が動いている。
実際に動いているのか疑わしいが、どうやら開催に向けて動いているように私たちには伝えられている。これは侮辱である。

私たちは健康で文化的な生活を送る権利を憲法で保障された国に暮らしており、それを侵そうとする行政的な決定は全て違憲であって無効である。しかし権力者は適法性や合理性を無視し、保身と関係者の利益のために国民の命と健康を引き換えにしている。権力者達は、私たちの人権を一顧だにしないという宣言としてオリンピックの開催に向けて動いている。これは侮辱である。

侮辱されればそれに対して怒りをもって反抗をしなければならない。ただし、周囲の人々にその怒りを振りまいてはならない。私が感じている怒りを、隣人も感じているわけではない。しかし、私は隣人の幸福を願うからこそ怒りをもって権力と対峙しなければと思う。

権力から侮辱される事の怒りは腹の奥に持ち続けながらも、家族や同僚、隣人に対してはそれぞれに対して敬意を持って、彼ら個別の価値観を認めながら、和やかな関係を壊さぬように振る舞わなければならない。
私たちが私たちという複数形であるためには、感情の一致を目指すのではなく、理想の共有を目指さなければならない。感性と価値観の独立した個人が集まり、同じ理想を共有した時に私たちは社会を理想へ向けて少しだけ動かすことができる。

横暴な権力から侮辱されれば怒らなければならない。しかし、怒りは真っ直ぐに元の方向にだけ向けて、私たちは私たちとして手を繋がなければいけない。

やまゆり園事件と24時間テレビに対する犯行予告について

要望があったので取り急ぎ今書ける事を書いた。
やまゆり園事件をまとめた本はこれから読むので大幅に加筆修正するかもしれない。

やまゆり園事件の犯人は幼少期より障害者に対する差別意識があったにも関わらず、何かの間違いのように重度精神障害者施設に勤めてしまった。約3年間という、年齢や経験からすれば短くない期間を通じて、持っていた差別意識をより強めるようになってしまった。彼の異常な思想や行動力の裏に大麻の影響が考えられるが、それは根深い差別意識の自己肯定と、世間の常識から遮断するという効果をもたらしただろうか。彼の言動は狂気とも言えるが、ある種の幼稚さ、子供のような直情も見ることができる。衆議院議長大島理森に犯行声明を無理矢理届けたのがきっかけで措置入院や退職という結果になるのだが、重度の障害者を殺す事が日本と世界の平和のためだという強い信念を持っており、またそれを政府が特殊工作員のように密かに承認し、実行後は新しい顔と名前と相当の現金を与えて無罪放免にしてくれるだろうとも信じていたように見える。価値の多様性であるとか、人権の普遍性という近代社会の常識に到達しておらず、何かの役に立つかどうかで社会参加の資格を測り、無資格者を養う費用が無駄なので殺すという短絡さだ。もちろん犯人も、施設での勤労を通じて日々徒労感と絶望感を深めていったのかもしれない。そうだとしても、やはり彼の達した結論は誰にも肯定されるべきものではない。

極度の差別主義者が大麻の影響によって最悪の犯行に及んだこの事件は、犯人の抱いていた優生思想、障害者は殺した方が社会のためだという陳腐な思想をあらゆる立場の人が明確に否定するべきであった。しかしながら、安倍総理大臣も菅官房長官も、被害者へのお悔やみや再発防止、真相究明といったおざなりなコメントしか出さず、犯人の差別意識を否定しなかった。特に政府や自民党は犯行予告で特赦と新しい人生を要求されていたのだから、真っ向から障害者であれ健常者であれ殺してはならない、役立つかどうかで社会を閉じてはならない、他者の幸福を勝手に推し量ってはならないと、明確に強いメッセージを送る義務があったと考えている。それをせずにおいたため、この事件後も日本社会は、とくに政治的文脈においては多少の差別は議論の余地があると甘くとらえられているように思う。

相模原事件の犯人が愛国者を自認していたのは間違いないところだろうと思う。そして、昨今のネトウヨと呼ばれる自称愛国者によるアジア諸国に対する差別意識の発露とも接続するものがあると感じる。この国を、この社会を良くするために邪魔なものを排除しようとする子供のような安直さを、今の政権や与党は利用して掃き溜めのような支持層をSNS上に作り上げている。今回の24時間テレビに対する犯行予告にしても、そのような愛国的差別意識が雰囲気としてあるからこそ、発せられた醜悪な言葉だ。

私達は何度でも差別と優生思想を否定しなければならない。そして政府と全ての政治家にも、事あるごとに自らの言葉で否定のメッセージを発してもらわなければならない。それはすぐに同種の事件を撲滅したり抑止したりするものではないが、差別のない社会に近づくために絶対に必要なものである。

自由恋愛の道徳性について

自由は素晴らしいものだ。逆に言えば、不自由な状況、基本的人権である自由権をもたない生活というのは苦痛に満ちたものになるだろう。
自由は素晴らしい、しかし自由に恋愛する事も同じように素晴らしいだろうか。
アラジンの物語のように、身分によって配偶者の選択肢が限られ、せっかく邂逅した惹かれ合う人物とパートーナーになれない制度は全く不自由で根絶されるべきものだ。
だがいつでも誰とでも恋愛関係を築く権利があるという状況は倫理的に望ましいだろうか。

セクシャルハラスメント、いわゆるセクハラは与える側と受ける側に権力や体力による勾配が前提とされる。分かりやすい例だと会社における上司と部下であったり、採用担当者と求職者であったり、教師と生徒であったり、大人と子供であったりする。

ここ最近、セクハラや女性の存在を貶めたような事例の報道を見聞きする。幻冬舎の編集者である箕輪厚介やお笑いコンビアンジャッシュ渡辺謙など。また、準強姦の被害にあった伊藤詩織さんがはすみとしこらによる醜悪な誹謗中傷に対して損害賠償請求の訴えを起こした流れで、発端となった山口敬之の卑劣な行状にも改めて注目が集まっている。

箕輪、渡辺、山口とそれぞれの行為は少しずつ違っているものの、女性の尊厳を無視してモノとして扱っていたという点では通底している。
私はこのブログを差別に抗い社会から解消するために書いているが、彼らの行為は女性差別のヴァリエーションに過ぎないと思っている。彼らは共通して、自分と同じだけの尊厳を相手にした女性に認めていないからこそ、そのような行為がされたのだ。

人間にはまず自尊心が必要である。自らの生命と、価値観を大切に扱う事ができなければ、子孫を残すこともできず早逝してしまうだろう。自己を肯定し、尊重する事は倫理的であるし、倫理的に振る舞う土台でもある。
難しいのは自尊心のある人物が、他者をも尊重して関係できるかという点である。並の想像力があれば、自分を大切に思う気持ちを身近な他者にも向けられるだろう。しかし、稀に想像力が極端に貧困な人物は、自己と他者をまるで違った存在として、他者をモノのように自らの利益のために利用する。自己と他者をどちらも尊厳のある人間として見ず、はっきりと区切って他者をぞんざいに扱うのが差別である。

男性を差別する女性がいないわけではないが、この社会には女性を差別する男性が多すぎる。男性と女性は性的な理由によってところどころは区分されるべきではあるが、前提として同じ権利と尊厳を持った人間なのだ。それが今の日本では常識であるとは断言いないのが恥ずかしい限りだ。

恋愛について考えていたのだが、箕輪、渡辺、山口の非道な行いに共通していると想像するのは、おそらく本人達は、どこか疑いながらもそれが「自由恋愛」であると思い込んでいたのではないだろうか。男女というのはいつでもどこでも恋愛関係に陥る可能性があるのだと、自分の都合で思い込んでいたのではないだろうかと推察している。
私は恋愛そのものは悪くないと思っている。遺伝子の囁きによって、自分よりも優秀な個体が生まれそうなパートナーを選ぶ仕組みとして、恋愛は意義があると考えている。
しかしその意義とは純粋に生物学的な意味であって、社会的には弊害も少なくないと考えている。その理由の一つが、権力勾配を内包したセクハラが、加害者側の都合によって自由恋愛に置き換えられてしまう事だ。

私は恋愛は若者のものだと思っている。これから生物学的なパートナーを選び、子を産み育てる期待をしている生き物が恋愛をするのだと。そして良きパートナーを選び、一人か二人か幾人かの子をもうけ、彼らを育てる事をしている人々には、もう恋愛によってパートナーを選ぶ必要はないと考えている。
私たちの脳は左右対称な顔立ちを美しいと感じるが、それは遺伝的な病気の確立が低い外見であり、健康な子孫を求める遺伝子の欲求である。しかし、近代以降は遺伝的に良い組み合わせであれば彼らがまた子孫を残すと素朴に信じられる社会ではなくなっている。この社会で再生産するためには、この社会に相当程度適応しておかなければならない。そして社会への適応とは、本能的ではなく学習的な要素である。
子を育てるというのは、単純に死なせないように育成する事ではなく、社会性を身に着けさせて、その社会でパートナーを見つけ子孫をもうけて欲しいから行うものだ。

近代以降は全くの無知蒙昧では生存が脅かされるような貧困や苦痛の多い状況に陥ってまう。自らの遺伝子を伝えようと願うなら、その子に対して社会的な処世術や必要な基礎知識を教育してやらなければならない。子孫が生まれた後に、遺伝子の伝達可能性を高めるならば、子孫に対して社会を教えるのが合理的な振る舞いである。

また、子を養育する時期を過ぎた年代の人々は、周囲の若年者を教育する役目を負うべきだろう。自らの知識と経験を伝えるには、年齢差というものがかなりの場合有効に働く。おそらく親や教師から教育を受けてきた幼年期の体験によるのだろうが。
若者は子孫を残し、またコミュニティを反映させるために自由恋愛を楽しめばいいと思う。しかしその年代を過ぎたならば、同じくらいの情熱を持って周囲の人々を教育するのが合理的だと考えている。恋愛は青春の一時期に限り、それを過ぎれば距離をとるのが成熟した大人の振る舞いではないだろうか。

早逝した彼女の件で何か書かなければいけない

若い女子プロレスラーが亡くなったそうだ。訃報に触れるまで私は彼女を知らなかったが、報道されている内容を見ると全く不幸であり、テレビという娯楽装置の犠牲者というふうに思える。彼女の母親も同業だったそうで、自分が育て、また背中を見て育ってくれた娘がその仕事の関わりの中で早逝する哀しみを思うと胸が潰れそうになる。

私は差別を憎んでいるが、亡くなった彼女のように、誰かの商売のために道具にされ、その尊厳が踏みにじられ、利用されるような非人道的なやり方を同じように憎む。彼女が受けたのは一般的な差別ではないが、人間の尊厳を破壊するという部分では共通するものがあり、その被害に遭った当人は同じような苦しみを受けただろう事は想像に難くない。

人間は誰もが他者から尊重されなければならない。

人間は誰もが他者を尊重しなければならない。

当たり前の事なのに、身近な社会にも人間らしく尊重されず、道具のように利用されて捨てられる人が数多くいる。社会を変えなければいけないし、人権意識の無い、他者を尊重できない野蛮な人間を変えなければならない。そしてそういう人に人権意識を植え付けて他者を尊重するように変えるのは至難の業であり、無理にしようとすればむしろ彼の人権を侵害してしまうおそれもあるのだ。

人間は自由である。社会的には認められないが、差別もいじめも暴力も、それを自由意志によって行為するのは可能である。制限されるのは行為の自由ではなく、他者を傷つける発想や意図であり、制限するのは自分自身でなければならない。現代における人間的な人間とは、他者を傷つける行為を自制できるのが条件だろう。

人間性は歴史を学び、現代の規範が成立した由来を理解しなければ頼りないものになるだろう。過去にあった奴隷制ホロコースト、植民地政策や女性差別を知らなければ、差別というのがどれほど深く人間を損ない、不幸な結果を生むのかが理解できないだろう。だから誰もが人類の不幸な歴史を学ぶ責任があり、常に学び続けなければいけない。今回の不幸な事件から私達が学ばなければならないのは、娯楽のために誰かの苦悩を見世物にしてはいけないし、職業的に人前に出ているからといって侮辱してもいい理由にはならないという事だ。私達は苦悩している人を見かけたらそっと寄り添って何か力になれないか共に悩むべきなのだ。何もできないなら、少し離れた場所から祈るべきなのだ。それが人間性であり、人間が不幸な歴史の上に獲得した現代の徳性なのだ。

師を選ぶ事について

師弟関係の根本は私淑であると思う。

私達は生まれてから死ぬまでに幾人かの師に従って知識を得たり見識を深めたりする。しかし親であったり幼少期に関わる先生と呼ばれる人々は、所与のものであり、私達が自分の意思や希望で選んだものではない。

そもそも親や養育者というのは人文学的な意味の師匠と言えるだろうか。動物として生きるうえで必要な多くの事を教えてはくれるものの、歴史や学問について教授してくれない、またはする能力のない養育者も少なからずあるだろう。そして本邦のいわゆる義務教育と呼ばれる小学校と中学校、そしてそれに準ずる形でほとんどの少年がそのまま学ぶ高等学校でも、古くは指揮官の命令に忠実な兵隊を、少し以前までは会社の命令に忠実な企業戦士を育成する設計がされており、いまだにその形式は多くがそのまま残っている。

ある程度の例外はあるだろうが、今の日本では自らが師を選び主体的に学ぶ機会はほとんど18歳を過ぎて大学へ進学するまでは訪れない。

 

学びというのは本質的に好奇心の延長線上にあるものだ。就職に有利だとか受験のためというのは一種の訓練や手段であり、多くの公的な学校の内部では学びの根幹が欠落しているように思う。

ある現象や表象に接し、その原理や機序を知りたいという切望こそが好奇心であり学びの動力となる。そして、その先に教えを請うべき人を自ら探し、その人から学ぶのが私淑であり師弟関係であり、また本当に先生と呼ぶべき間柄であろう。偶然や誰かの意図によって作られた師弟関係は紛い物であると私は思う。もちろん嘘から出た真と言うべきような、与えられた関係の中で幸運にも素晴らしい先生に恵まれる場合もあるとは思うが。

自分で師を選んだ時に、自分の選択が正しいものであって欲しいと誰もが無意識に願うだろう。つまり、何か教えを受けたいと選んだ人であれば、その分野の専門家や権威であるのは当然として、社会人市民としても成熟し高潔な人物であるのが先生として望ましい姿だと言える。しかし、そのような理想的な人物はなかなか市井にいるものではない。人間は誰もが自己中心的であり、弱さもあり、一時は高潔で屈強な人物でも、年齢や病苦によって弱ったり惑うのが普通である。

つまり師を無条件全面的に理想化するのは誤りであり、完璧な人物を欲していても、それを少なくとも存命の人物に求めるのは不幸の元である。できればすでに死去しており、かつ評価の定まった人物を選び師と仰ぐのが妥当だろう。私はプラトンソクラテスを尊敬し、ある意味私淑してはいるが、それでも晩年の彼らと接する事を想像してみれば、面倒な年寄りだというような幻滅を味わうような気がする。師というのは構造的に彼を持ち上げ仰ぎ見るものであれば、同じ地平に立って親しく接するのは学びにとって有用ではないだろう。

師は自ら選ぶものであり、時に幻滅させられるものであり、それでも学びを助けてくれる素晴しい存在である。それほど多くの師を持つ必要はないが、一人の師から世界の全てを学ぼうとすれば崇拝になり宗教に寄ってしまうので、それぞれの分野によって幾人かをあてにするべきなのだろう。