自由は素晴らしいものだ。逆に言えば、不自由な状況、基本的人権である自由権をもたない生活というのは苦痛に満ちたものになるだろう。
自由は素晴らしい、しかし自由に恋愛する事も同じように素晴らしいだろうか。
アラジンの物語のように、身分によって配偶者の選択肢が限られ、せっかく邂逅した惹かれ合う人物とパートーナーになれない制度は全く不自由で根絶されるべきものだ。
だがいつでも誰とでも恋愛関係を築く権利があるという状況は倫理的に望ましいだろうか。
セクシャルハラスメント、いわゆるセクハラは与える側と受ける側に権力や体力による勾配が前提とされる。分かりやすい例だと会社における上司と部下であったり、採用担当者と求職者であったり、教師と生徒であったり、大人と子供であったりする。
ここ最近、セクハラや女性の存在を貶めたような事例の報道を見聞きする。幻冬舎の編集者である箕輪厚介やお笑いコンビアンジャッシュの渡辺謙など。また、準強姦の被害にあった伊藤詩織さんがはすみとしこらによる醜悪な誹謗中傷に対して損害賠償請求の訴えを起こした流れで、発端となった山口敬之の卑劣な行状にも改めて注目が集まっている。
箕輪、渡辺、山口とそれぞれの行為は少しずつ違っているものの、女性の尊厳を無視してモノとして扱っていたという点では通底している。
私はこのブログを差別に抗い社会から解消するために書いているが、彼らの行為は女性差別のヴァリエーションに過ぎないと思っている。彼らは共通して、自分と同じだけの尊厳を相手にした女性に認めていないからこそ、そのような行為がされたのだ。
人間にはまず自尊心が必要である。自らの生命と、価値観を大切に扱う事ができなければ、子孫を残すこともできず早逝してしまうだろう。自己を肯定し、尊重する事は倫理的であるし、倫理的に振る舞う土台でもある。
難しいのは自尊心のある人物が、他者をも尊重して関係できるかという点である。並の想像力があれば、自分を大切に思う気持ちを身近な他者にも向けられるだろう。しかし、稀に想像力が極端に貧困な人物は、自己と他者をまるで違った存在として、他者をモノのように自らの利益のために利用する。自己と他者をどちらも尊厳のある人間として見ず、はっきりと区切って他者をぞんざいに扱うのが差別である。
男性を差別する女性がいないわけではないが、この社会には女性を差別する男性が多すぎる。男性と女性は性的な理由によってところどころは区分されるべきではあるが、前提として同じ権利と尊厳を持った人間なのだ。それが今の日本では常識であるとは断言いないのが恥ずかしい限りだ。
恋愛について考えていたのだが、箕輪、渡辺、山口の非道な行いに共通していると想像するのは、おそらく本人達は、どこか疑いながらもそれが「自由恋愛」であると思い込んでいたのではないだろうか。男女というのはいつでもどこでも恋愛関係に陥る可能性があるのだと、自分の都合で思い込んでいたのではないだろうかと推察している。
私は恋愛そのものは悪くないと思っている。遺伝子の囁きによって、自分よりも優秀な個体が生まれそうなパートナーを選ぶ仕組みとして、恋愛は意義があると考えている。
しかしその意義とは純粋に生物学的な意味であって、社会的には弊害も少なくないと考えている。その理由の一つが、権力勾配を内包したセクハラが、加害者側の都合によって自由恋愛に置き換えられてしまう事だ。
私は恋愛は若者のものだと思っている。これから生物学的なパートナーを選び、子を産み育てる期待をしている生き物が恋愛をするのだと。そして良きパートナーを選び、一人か二人か幾人かの子をもうけ、彼らを育てる事をしている人々には、もう恋愛によってパートナーを選ぶ必要はないと考えている。
私たちの脳は左右対称な顔立ちを美しいと感じるが、それは遺伝的な病気の確立が低い外見であり、健康な子孫を求める遺伝子の欲求である。しかし、近代以降は遺伝的に良い組み合わせであれば彼らがまた子孫を残すと素朴に信じられる社会ではなくなっている。この社会で再生産するためには、この社会に相当程度適応しておかなければならない。そして社会への適応とは、本能的ではなく学習的な要素である。
子を育てるというのは、単純に死なせないように育成する事ではなく、社会性を身に着けさせて、その社会でパートナーを見つけ子孫をもうけて欲しいから行うものだ。
近代以降は全くの無知蒙昧では生存が脅かされるような貧困や苦痛の多い状況に陥ってまう。自らの遺伝子を伝えようと願うなら、その子に対して社会的な処世術や必要な基礎知識を教育してやらなければならない。子孫が生まれた後に、遺伝子の伝達可能性を高めるならば、子孫に対して社会を教えるのが合理的な振る舞いである。
また、子を養育する時期を過ぎた年代の人々は、周囲の若年者を教育する役目を負うべきだろう。自らの知識と経験を伝えるには、年齢差というものがかなりの場合有効に働く。おそらく親や教師から教育を受けてきた幼年期の体験によるのだろうが。
若者は子孫を残し、またコミュニティを反映させるために自由恋愛を楽しめばいいと思う。しかしその年代を過ぎたならば、同じくらいの情熱を持って周囲の人々を教育するのが合理的だと考えている。恋愛は青春の一時期に限り、それを過ぎれば距離をとるのが成熟した大人の振る舞いではないだろうか。