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全ての差別の止揚と克服を

公正な社会を望んでいます

森友学園、安倍政権、日本会議。

森友学園問題について、発覚してから今日(3/18)までずっと追いかけている。余りにも多くの不公正や偏見や虚偽や言い逃れ、人間や集団のネガティブな面が露出し過ぎて日常生活にも支障が出てしまいそうだ。

上記リンクの動画がいつまで再生可能か分らないが、現内閣の閣僚のうち8割が日本会議に所属しており改憲を通じた戦前回帰を目論む人々だと説明されている。特に安倍総理の覚えめでたき稲田朋美防衛相は日本会議の母体であった生長の家の信者であり、しかもそれは祖母の代からの筋金入りであるとされる。

第二次安倍政権がこれほどまでに独裁的に振る舞えるのは突き詰めれば内閣人事局によって官僚のトップから600人の人事権を掌握しているためである。
国有地売却に関して直接の圧力をかけていなかったとしても、安倍晋三記念小学校という名が聞こえればそれは「官邸マター」であり「安倍マター」であり、少しでも出世したい官僚にとって絶対に自らの立場においてその設立の妨害をしてはならないと戦慄させるに十分な体制ができてしまっている。

同時に日本維新の会に所属する議員らも、自分たちの政治生命は安倍首相次第だと自覚しており、官僚の働きと合わせて忖度を超えた隷従とさえ言えるほどの卑屈な働きぶりである。

私は安倍晋三には思想も信心も感じられないが、唯一祖父の成し遂げられなかった憲法改正のみが悲願なのだろうと推測する。おそらくその他の事は二の次であり、日本会議も含めあらゆるものを利用し、憚ることなく突き進んでいる。しかし思想なき運動にはおこぼれに与ろうと有象無象が集まるものであり、籠池氏らもその一種なのだろう。

この件で安倍政権が倒れればまずは目出度い事ではあるが、今後日本会議が誰を神輿に担ぎ、多くの成功と失敗から学んで巧妙に活動を変質させていくのかを警戒しなければいけない。
民主党政権が成立した頃、政治は良く言えば民意で、悪く言えば雰囲気で物事が決まっていた。しかし日本会議の勃興以降はその地道な運動によって政治的な選択や決定がされる時代になったのだろう。リベラルや左派の運動がより洗練され緻密になるように期待される。

 

ヤクザの人権について

映画『ヤクザと憲法』の公開や週刊誌の記事によって「ヤクザの人権」について言及が増えている。

例によってまとめサイトなどでは、「人権がないのは当たり前」だの「それを承知でヤクザになったのだろう」という蔑視的なコメントが羅列されるが、実に幼稚で見苦しいものだ。

そもそも一般に言う人権とは基本的人権の事であり、人間であれば誰もが根源的に有していて、決して奪われたり制限されたりしない権利の事である。たとえ彼が指定暴力団の成員であって、いわゆるヤクザと呼ばれていても、決して制限されてはならないのが人権なのだ。

現在は全ての都道府県に暴力団排除条例が制定され、対象者への利益供与が禁止されている。さすがに電気水道ガスと病院だけは例外らしいが、暴力団員であることを隠さなければ銀行口座を作る事も住居を借りる事もできない。また後になって暴力団員であることが判明すればその契約を解除できるとされており、常に不安な立場で生活しなければいけない。

暴力団員である事は、法の下の平等から外れているという事であり、明らかな被差別者となっている。特に排除条例は近年になって制定されたものであり、既に暴力団員だった者にとっては不遡及の原則から考えればいささか問題があるのではないだろうか。嫌なら辞めればいいと言う人も多いが、刺青や指の欠損などがあれば一般市民として仕事を得る事がかなり困難だろう。

それを自業自得と言って嘲笑する者は、いつか自分もそうやって差別される身に置かれるとは想像しないのだろう。例えば政府の国家主義がどんどん先鋭化すれば、障害者や老人の人権が制限される日もありえないとは思えない。あるいは国際結婚した人が、国粋主義的な政府によって差別を受ける日も来るかもしれない。

そういう暗い時代が来ないように、憲法と人権を守らなければいけないのだ。たとえヤクザであっても、人権が蔑ろにされているのを見過ごしてはいけない。

テロの時代の功利主義哲学

今世紀初頭は、テロによって世界が捉えられる時代になってしまった。テロに先立っては大国による小国への軍事侵攻があり、それ以前には小国内での民族紛争と弱者への犯罪がある。

小さな憎しみは繰り返すうちに雪だるまのように大きくなり、気がつけば誰もそれを止められず、誰も正しくない殺し合いが始まっている。 「テロリストとは交渉しない、断固としてテロと闘う」などと政治家は勇ましく宣言するが、テロはたった一人の決意さえあればいつどこにでも現れるもので、本当に私たちが戦わなければいけないのは、自分と社会の内にある憎しみと非寛容と、他者への恐怖そのものなのだ。

テロが起きないようにするためには、この世界から憎しみを無くさなければいけない。それが無理なら、憎しみを少しでも減らす事をしなければいけない。つまり許容や寛容や、友愛や理解が憎しみを癒しテロを防ぐのだ。

功利主義哲学は、幸福の総量を想定し倫理の規範とした。現代社会では不幸や憎しみの総量を想定し、それを減じる事が倫理的であるとの新しい倫理を作らなければいけない。私と私たちの行為はこの世界に憎しみを増やさないだろうか。それだけを問うて日々を生きていくべきなのだ。

豊かな社会の尺度について

障害児の教育に掛かる社会的資源を節約する目的で、出生前診断の拡大を望む人がいるらしい。それが一市民ならそういう人もいるだろうとしか思わないが、とある県の教育委員長だったから大きく報道された。


たしかに障害児の教育には大きなコストがかかり、またコストをかけて教育した結果が社会を豊かにする結果に繋がらないと考える人もいるだろう。ここで問題になるのは何をもって「豊かな社会」を測るのかということだ。


たとえば茨城県で油田が見つかり、税金は廃止されて県民給付金が毎月100万円ずつ出る社会になったとしたら相当に豊かであるような気がする。しかし一方で、県境には検問が設けられ、茨城県への移住には厳しい審査が行われた上で年間数名しか受け入れられず、しかも出生前診断と障害児であると疑われた場合の堕胎が義務付けられたとしたら、そこは豊かな社会だろうか。

 

障害児の教育へ大きなコストが払われるのは、彼らにも教育を受ける権利があり、最低限文化的で幸福な生活を送る権利があるからであり、そのような人権が守られているのは豊かな社会だろう。確かに経済の低迷や長期的な人口減少のトレンドを考えれば、あらゆる公共サービスのコストについて、その必要性や妥当性が検討されるべきかもしれない。しかし、事人権に関しては、貧すれば鈍すでは許されないのだ。私たちが今享受している当然の権利は、多くの先達が血と涙を流して、文字通り命懸けで確立したものなのだから。たかが金のために譲り渡していいようなものではない。

 

教育は、決して社会や国家のために施されるものではない。それは個人がより人間的に成熟し、人類の歴史と叡智に触れる機会である。なぜ教育者が聖職者と呼ばれてきたのか、関係者には今一度考えていただきたい。

安保法案の成立を喜ぶ人がいるのはなぜなのか

結論から言えば、勝ち馬に乗る優越感だろう。

かつてはプロ野球12球団の中で読売ジャイアンツが次点以下を引き離し圧倒的な人気を誇っていた。
豊富な資金力によるスター選手の起用と、日本テレビ、読売新聞、スポーツ報知による圧倒的な露出量が全国的な球団への親しみを生んでいた。そして何より巨人軍は平均して最も勝率の高い球団であり、見知った選手が活躍し、親しみある球団が勝利する快感を毎日のように感じる事ができた。この身内が勝利する快感が、スポーツ観戦の肝だろう。

さて安保法案である。
民主党政権が倒れてからの自民党は強い。旧来の組織票以外にもいわゆるネトウヨと呼ばれる比較的若い保守層から相当の支持と票を集めている。彼ら若年保守層はロストジェネレーションと呼ばれる年代から選挙権を持たない中高生までそれなりの幅を持って存在している。彼らに共通するのは成長や成功から社会的に遠ざけられた世代と言えるだろう。資本主義の爛熟と経済のグローバル化によって、一部のエリート以外は親の世代以下の生活から一生抜け出せないような見通しになってしまっている。その希望の無さが彼らを自民党支持に向かわせているのではないだろうか。下野して以降の自民党は保守色を強め、中韓との対決姿勢を隠さず強い国家モデルを提示する。若年保守層にとって、今の自民党は前時代の巨人軍のような、スター選手が活躍する最強の政党なのだ。自民党はかつて不覚を取った民主党や、遠い過去にはライバルだった社民党や、悪の手先である共産党を民主的な選挙によってバッタバッタとなぎ倒してきた。それは支持者にとって相当に快感だったのではないだろうか。支持者にとっての自民党は、今の閉塞した日本を強く美しい国へと生まれ変わらせてくれる救世主のようにも見えているのかもしれない。

彼ら若年保守は純真ではある。しかし世界の複雑さを悩み抜く思考の体力に欠け、他者への想像力も無きに等しい。強さに憧れる気持ちは分かるが、強い自民党政権は、結果的に支持者の権利や安全をも奪おうとしている。それに気付く者の少なさに悲しい気持ちを覚える。
美しいものを求めるのは人間の根源的な欲求であり、自然な事だろう。しかし政治家の唱える美しい国が、本当に美しいのかよく考えてみて欲しいと思う。自分にとって美しいものが、普遍的に美しいものなのか考えてみて欲しいと思う。

差別が闇サイト殺人事件の萌芽だったのか

いわゆる「闇サイト殺人事件」または「愛知女性拉致殺害事件」と呼ばれる強盗殺人、死体遺棄事件で死刑判決を受けた男の死刑が執行された。
この事件は被告の陳述など公判記録が、死刑となった被告本人の意思によって公開されていた時期があり、現時点でも一部をウェブ上で読む事ができた。

まず死刑制度の是非については、国家と国民による殺人であり、残虐な刑罰を禁じた憲法違反であり、廃止される事が望ましいと思う。
しかし、ただ金のために急拵えで強盗団を作り、計画の杜撰さ故に被害者を殺害するに至った3人の犯人については、遺族が何十万筆も署名を集めて求めたように、極刑が適当であるようにも感じる。(被害者が一人であるので量刑の公平性から死刑判決が危ぶまれたが、今回執行された一人には死刑判決が、残りの二人には無期懲役の判決が下っている)

被害者の女性は事件当時31歳。物心付く前に父親を病で亡くし、母子家庭に育った。母に家を買ってあげたいと、数百万円の貯金をしていたが、運悪く犯人の標的となり首を締められ、ハンマーで何十回と殴られ命を落とした。趣味の囲碁で知り合った恋人と、付き合い始めてまだ1ヶ月だった。
被害者は包丁を突きつけられ、脅されながらもキャッシュカードの暗証番号を教えなかった。正確にはわざと間違った番号を教えたために、犯人らは彼女の数百万円の預金を奪う事ができなかった。
被害者が犯人に教えた嘘の番号は「2960」であり、これは「にくむわ(憎むわ)」の意味だろうと被害者の母親と恋人が語っている。同じような語呂合わせをよくしていたから間違いないだろうと。被害者は母親に家を買ってやるための資金を奪われる事が許せず、またどこかで自分は助からないと悟り、遺族や社会に犯人への処罰を求め「憎む」というメッセージを遺したのだろうと言われている。

一方で死刑が執行された犯人は、兄弟とは別れて離婚した父と二人で暮らしたり叔母や祖父母の家に預けられたりと複雑な家庭に育ったようだ。父子家庭であったり、祖母がアイヌであったりした事で学校でイジメに遭い、相談した教師や民生委員などからまともに取り合ってもらえなかった経験によって、次第に社会全体に敵意を育んでいった。これらは父親らの証言と食い違う部分もあるので、おそらくは減刑を目論んだ犯人の脚色もあるだろうが、社会からの疎外が遵法意識であるとか社会道徳を欠落させる大きな要因になったのだろう。また20代で群発性頭痛という難病を発症し、当初は保険適用もされず、公的な補助もなく病の苦痛と経済的負担、そして社会からの無関心という苦境に立たされ、困っているのに何もしてくれない社会への復讐心からやがて犯罪によって金を得る事を、半ば業務的に行うようになったと考えられる。

犯罪は逮捕や服役のリスクを考えれば決して割にあわない仕事である。泥棒や詐欺師など、職業的に違法行為を行う者を、ただ短絡的で失うもののないからだという印象を持っていた。今回の犯人もその印象から大きく外れるものではないが、彼が供述の中で何度か社会に対する復讐という意味の事を言っていて、彼にとっての犯罪は金を得る仕事であると同時に、自分を見捨てた社会に対する復讐でもあったのだと感じた。仮に彼の供述を全て信じれば、彼がもっと社会的に成長する機会はいくつもあったと思う。どこかで誰かが親身になって彼を助けたり励ましたりしてやっていれば、犯罪以外の方法で社会と関わり生きていけたのではと想像する。

愛する娘や恋人を殺された遺族が、殺人犯の死刑を求める事には共感する。しかし殺人犯が殺人を犯すに至るまでには、社会全体の不寛容や差別、不親切、拒絶、無理解など犯人にとって恨んで当たり前のような仕打ちを受けている場合が多いのではないだろうか。

おそらく死刑は殺人など重大犯罪の抑止力にはならない。多くの殺人は理性の及ばない状況で行われている。死刑を存続する、裁判員裁判で死刑判決を出す、死刑を執行する、そういう事で新たな殺人が予防できると私には信じられない。
この事件で殺された被害者と死刑になった加害者、二人の命から何か学ぶならば、社会を憎む人間を一人でも減らす事が犯罪を減らすという事だ。
それは差別を無くす事であり、弱者へ適切な援助をする事であり、困っている人に手を差し伸べる事である。
見知らぬ誰かに助けてもらった人は、見知らぬ誰かを襲って金を奪おうという発想にはならないのではないか。そう信じて今より少しでもましな社会を私達で作らなければ。

公衆浴場における差別

そもそも差別とは何だろうか

一言で言えば「恣意的な分別によって対象の個人または集団に不利益を強要する行為」という事になるだろう。

比較的軽い*1差別の例として、刺青やタトゥーをしている人が公共浴場の利用を断られるケースがある。刺青やタトゥーを帯びている人を分別する事が恣意的か否かが見解の別れるところだろう。

暴力団員を分別して公共施設から締め出す事は、当事者を除けばほとんど異論を聞かない。これは現代の日本において社会的に許容される、あるいは要求される分別であり恣意的なものではないと社会通念ができていると言えるだろう。

問題となるのは刺青をタトゥーと呼び、ファッション目的で施術した人々だ。彼らを暴力団員と同じく公共施設から排除する根拠は薄弱に思える。しかしファッション目的のタトゥーと暴力団・反社会的勢力に所属するイニシエーションである刺青とを正確に峻別するのは実務上無理がある。暴力団員からファッションだと抗弁された場合には、論理的には施設管理者が対象者と暴力団との関係を明らかにしなければいけなくなるので無理と言っていい。そうすると一見して峻別が容易な線を選び、全てのタトゥーと刺青を帯びている人を排除する仕組みにするしかなくなる。

これは広義の差別ではあると思うが、暴力団員の排除が望ましいとされる社会においては実務上の理由で許容される範囲に収まるのだろう。

この差別はどのように止揚されるべきであろうか。

暴力や欺罔を用いて他者から財産を奪う事を常としている集団を暴力団と定義するならば、彼らを排除する事は社会にとって有益であり望ましい事のように思える。しかしそれが差別を通じて、社会的暴力で打ちのめして排除しようとする事については疑問を呈したい。たとえ望ましい社会のためであっても、差別や暴力という安易な手段を肯定してはいけない。

私は刺青を帯びた人が公衆浴場を利用する事が受け入れられる社会を望む。そのためには、刺青を帯びた当事者が、出来る限り周囲に威圧感を与えぬように、周囲の利用者と融和していく努力が求められる。
過渡的には明らかに暴力団員に見える人を排除する時期があるだろうが、ぜひ自助努力と施設側の自主緩和によってこの比較的軽い差別を克服して頂きたい。

*1:社会的許容度の高い